美女と才女
春日野八千代  
宝塚歌劇団理事
生年月日1915年11月12日
私の履歴書  掲載日1984年11月12日
執筆時年齢69 歳

1915年(大正4年)11月12日 – 2012年(平成24年)8月29日) 兵庫県生まれ。

芸名の「春日野」は琵琶歌の歌詞の一節から、「八千代」は「君が代」から取り命名。戦前戦中戦後にかけてさまざまな作品を残し、端整な美貌から「白薔薇のプリンス」「永遠の二枚目」の異名を取るなど、人気男役スターとして一世を風靡した伝説の二枚目男役。 亡くなるまで、宝塚歌劇団の現役生徒(団員)であり続け、宝塚歌劇団の歴史上で最年長の生徒であった。

相手役を演じた娘役としては、糸井しだれ深緑夏代月丘夢路浅茅しのぶ朝倉道子新珠三千代八千草薫有馬稲子鳳八千代浜木綿子扇千景加茂さくら梓真弓上原まり松本悠里等が挙げられるが、特に、乙羽信子とのコンビはゴールデンコンビと呼ばれた。

1.舞台上で恋を語った美女70余人

昭和4年(1929)の春に初舞台(当時16歳)を踏んでから、55年の歳月が流れた。この長い舞台生活の間に、私は二枚目男役という役柄を通して、女性たちの夢みるメルヘンの男性像を表現しようと努力してきた。そして舞台の上とはいえ、天下の美女を相手にあまたの恋をしてきた。こればかりは、世の男性諸氏にもうらやましがられてもいい、と思うぐらいである。

 戦前の恋人たちはみな年上だが、次々に相手が変わって、桜町公子さんあたりから年下の恋人になった。相手はハムレットの私に、乙羽信子さんのオフィーリア、「虞美人」では、項羽の私に、虞美人の南悠子さん。私の代表作となった「源氏物語」では、由美あづさ、梓真弓、有馬稲子、八千草薫さんたちが、絢爛と取り囲んでくださって、光の君の幸せを実感したものである。指折り数えると、私の恋人は70人余りになうようである。

2.厳しいけいこ

「モン・パリ」生みの親である岸田辰弥先生は、白井鉄造先生の師にあたる方だが、その岸田先生にも私たちは厳しくしつけられた。

 先生は岸田劉生画伯の弟さんで、ローシーという外国人について本格的にオペラを学ばれた声楽家だった。女の子ばかりだといって手を抜かれることはなく、一言のセリフのけいこをまる一日やらされた人もいる。そんなときでも、組の人は全員、教室にいてけいこを見ていなければならない。そっと本を読んだり、編み物でもしようものなら、たちまち平手打ちが飛んでくるのでした。

3.レビュー全盛時代

小林一三先生が日比谷に東京宝塚劇場を造ってくださったのは、宝塚少女歌劇が始まってちょうど20年目にあたる昭和9年(1934)の1月でした。それまでの東京公演は、歌舞伎座や新橋演舞場の空いている時期をお借りして短期公演する状態だったから、東京にホームグランドができた喜びはやはりひとしおだった。

 翌年には横浜宝塚劇場、そして京都と名古屋にも劇場が誕生し、地方公演も忙しくなった。レビュー全盛のこの時期に、宝塚の人気は一躍全国に広まったように思われる。この時の東京公演で、私がえんび服を披露してよく似合うと評判になったのがうれしく、印象深いステージとなりました。

4.男役の苦労

もともと私だって女性なのだから、男役をやるうえでは、私なりに努力と工夫を続けてきた。宝塚では外国を舞台にした芝居やレビューすることが多いが、西洋の男性になるなら少しでも足を長く見せなきゃ、と靴のかかとを高くしてみる。それを隠すためにズボンの裾を後ろだけ長めに仕立ててもらい、中央は細く縫い込むようにする。と、スラリと形よく見えてくるものである。

 また、男性に化けるのには、肩や背中の線も重要なポイント。男役に徹しようと決めたときから、私はイカリ肩になるようにと、腕をグルグル回す運動をひそかに始めた。

 タバコの吸い方に歩き方、ジェスチャー・・・・・。男性の研究をすると言っても、女ばかりの宝塚だし、それに父と歩いてもとやかく言われる時代だったから、私たちのもっぱらのお手本は洋画だった。映画と言えば洋画、それもフレッド・アステアがお気に入りだった。おかげで私も小さいときから洋画に親しんで、宝塚に入ってからも、暇を見つけては映画館に足を運んだものである。

5.光源氏の役作り

長いことタブーとされていた「源氏:の劇化が戦後ようやく解禁になり、歌舞伎では市川海老蔵(十一代団十郎)さん、映画では長谷川一夫さんが主演されるなど、あたかも「源氏ブーム」が湧き起こっているさなかの企画だった。昭和27年(1952)の元日から幕を開けた初演の配役は、私の源氏に、朧月夜が梓真弓さん、若紫が八千草薫さん、葵の上が有馬稲子さん、藤壺は由美あづささんで、夕顔・朝倉道子さん、六条御息所・水原節子さんという絢爛たる顔ぶれでした。

 源氏というのは、とにかく体から匂うような色気と品は絶対に欠かせない。それに客席で光源氏とはああいう人かな、と見る人に思わせなければならない。その心労たるや、大変な重圧だった。

 この舞台で、私は毎日、衣装にシャネル5番を振りかけて出た。本には、源氏が通ると、衣装に焚き込めたお香の匂でそれとわかる、と書かれていたからだ。もともと香水道楽であれこれ集めていたものの、その中から特にシャネル5番を選んだのは、これが一番お香のかおりに近かったから。

かすがの やちよ
春日野 八千代
春日野 八千代
春日野八千代(1955年より前の撮影)
本名 石井 吉子
別名義 よっちゃん
生年月日 (1915-11-12) 1915年11月12日
没年月日 (2012-08-29) 2012年8月29日(96歳没)
出生地 日本の旗兵庫県神戸市
国籍 日本
職業 女優
ジャンル 宝塚歌劇
活動期間 1929年 - 2012年
主な作品

宝塚歌劇

リラの花咲く頃
ハムレット
虞美人
源氏物語
ダル・レークの恋
メナムに赤い花が散る
備考
宝塚歌劇団名誉理事
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1944年、宝塚大劇場閉鎖前の"最後の"公演「翼の決戦」。壇上が春日野
1951年「虞美人」初演。項羽
1954年「君の名は <ワルシャワの恋の物語>」

春日野 八千代(かすがの やちよ、1915年(大正4年)11月12日 - 2012年(平成24年)8月29日)は、元宝塚歌劇団専科男役。劇団名誉理事も務めた。元星組雪組主演男役クラス。元雪組組長。本名、石井 吉子(いしい よしこ)。愛称、ヨッちゃんヨッちゃん先生

兵庫県神戸市出身。芸名の「春日野」琵琶歌の歌詞の一節から、「八千代」は「君が代」から取り命名。戦前戦中戦後にかけてさまざまな作品を残し、端整な美貌から「白薔薇のプリンス」「永遠の二枚目」の異名を取るなど、人気男役スターとして一世を風靡した伝説の二枚目男役。

亡くなるまで、宝塚歌劇団の重鎮として宝塚歌劇団の現役生徒(団員)であり続け、宝塚歌劇団の歴史上で最年長の生徒であった[注 1]
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