掲載時肩書 | 前日本銀行総裁 |
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掲載期間 | 2023/11/01〜2023/11/30 |
出身地 | 福岡 |
生年月日 | 1944/10/25 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 教育大付属駒場高校 |
入社 | 大蔵省(現財務省) |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 秘書課、英国留学、理財局、三重県、国際金融、財務官、アジア開発銀行、日銀総裁、大学教授 |
恩師・恩人 | 林正二郎、山田豊子先生 |
人脈 | 松本厚治、尾身茂、サマーズ財務長官、周小川総裁、マリオ・ドラギ総裁、ラガルド総裁、イエレン議長、クルーグマン教授 |
備考 | 父:海上保安庁 |
大蔵省(現財務省)出身の「履歴書」登場は多いが、日銀総裁の経験者は宇佐美洵(1971.1)、澄田智(1993.10)に次いで黒田氏は3人目である。財務省の国際金融畑で働き評価され財務官となり、先輩の大蔵大臣や日銀総裁に随行して国際会議に出席することで各国の金融・財政代表や国際機関代表との幅広い交友を得ていた。この経験と人脈が多くあったことでアジア開発銀行総裁や日銀総裁で立派な成績を出せたのだと思った。
1.ニクソン・ショック(1971)による日本の影響
1971年8月15日のニクソン・ショックで金融界は激変する。71年12月のG10スミソニアン合意で1ドル=308円の固定相場が復活したが、ドルの金兌換は復活しなかった。73年2月、固定相場制は主要通貨がフロートに移行して崩壊した。それから変動相場制が現在まで続く。
振り返れば、米国は71年に3つの「ニクソン・ショック」を断行したと私は思う。第一は6月に沖縄返還協定に調印し、戦後の日本占領を最終的に解消した。第二に、7月に大統領補佐官のキッシンジャー氏を北京に派遣して中国との国交回復に踏み出した。明らかにベトナム戦争から手を引く布石だった。第三に、8月にドルの金兌換を停止し、円とマルクの相場の切り上げとドルの切り下げを促した。戦後圧倒的な経済力を誇った米経済がベトナム戦争で疲弊し、日本やドイツ経済の力強い再興に対抗しなければならなくなった。
2.冷戦終結の副産物
1990年代初頭、東西冷戦が終結した。ドイツは90年7月1日、約3月後の統一に先立って東西の通貨マルクを一対一の比率で統一した。91年12月にゴルバチョフ氏が大統領を辞任し、ソ連は崩壊した。主要7か国(G7)の仲介で旧ソ連の15共和国の対外債権・債務をロシアに片寄せしたが、巨額の債務の処理が課題だった。
冷戦終結のもう一つの副産物がドイツの地位低下だ。対等の通貨統合した旧東独経済の低迷が響いた。70~80年代は日独が米国の貿易・為替政策の標的だったが、90年代は日本だけだった。鉄鋼、半導体、パソコンなど日本の競争力が強いセクターは貿易・投資の制限と円高で大打撃を受けた。自動車だけが米国進出で生き延びた。90年代前半、日本の経済低迷の主因はバブル崩壊だった。だが、90年代後半は日本たたき(ジャパン・バッシング)の影響が大きかった。
95年に国際金融局次長になって、榊原英資局長をサポートした。為替相場では一時的に行き過ぎたドル安が進み、米国が日本と協調してドル買い介入をした。その時ですら米国財務省は及び腰で、呆れた。クリントン政権は後期にドル高政策に転じたと言われた後でも、円高・ドル安を是正しようとはしなかった。
3.アジアの地域統合と長期戦略
私は2005年2月1日、アジア開発銀行(ADB)の第8代総裁に就任した。ADBが従来進めたメコン川流域や中央アジア地域のインフラ整備の経済協力の枠組みを超え、幅広い経済統合を推進する必要があると考えた。地域統合を展開する中で、話題となったのが地球環境、特に気候変動への姿勢だ。
アジアは巨大な人口を抱え、経済成長も著しい。一方で二酸化炭素(CO2)の排出が急増し、地域での気候変動の緩和が重大な課題となった。太平洋やインド洋の島しょ国では高波や海水面上昇などへの対応が迫られていた。そこで2006年春、スパチャイ国連貿易開発会議(UNCTAD)事務局長を座長とする専門家グループを作った。当時のメンバーはサマーズ元財務長官、出井伸之ソニー前会長、ジャスティン・リン北京大学教授、カイオ・コッホウェザー前独財務次官だった。忙しい専門家が1年間に4回も集まり、喧々諤々の議論をしてくれた。
08年春に「ストラテジー2020」というADBの新たな長期戦略が完成し、理事会の承認を得た。長期戦略では「包括的な経済成長」「環境面で持続可能な成長」「地域協力・統合」の3つを戦略的な課題と位置付けた。ADBの役割はインフラ、環境、地域統合、金融、教育の5分野に絞った。各種の課題がどれだけ達成されているかを毎年、数値目標を用いて事前事後にチエックすることになった。
4.日本金融の異次元緩和
2013年3月20日、私は白川方明氏の後任として、第31代の日銀総裁に就任した。初めて率いる組織で、日本経済の懸案であるデフレ克服に全力を尽くす決意をした。幸い、白川前総裁のもとで日銀の政策委員会は消費者物価上昇率を2%とする物価安定目標を定めていた。達成に向けてスタートから次元の違う強力な金融緩和を思い切って実施することにした。
金融政策決定会合で「2年程度の期間を念頭において、できるだけ早期に2%の物価安定目標を達成する」方針を決めた。「量的・質的金融緩和」導入は全員一致だった。長期国債の保有残高を年間約50兆円相当のペースで増やし、マネタリーベース(資金供給量)を年間約60兆~70兆円相当のペースで増加させる。買入れる長期国債の平均残存期間を3年弱から7年程度に引き上げ、上場投信信託(ETF)の保有残高を2年で2倍に相当するペースで増加させる。総力を挙げたデフレ脱却の姿勢を強調した。
大胆な緩和策で海外からの日本を見る目も変わった。日銀の強い意志に呼応して株価は上がり、経済は想定通りに反応した。14年春に消費者物価上昇率は1%台半ばに達し、経済成長も1%台に回復、失業率も3%台に低下した。誤算は賃金の上昇率が低迷し、物価上昇の勢いが不十分だったことだ。14年4月の消費税率5%から8%へ引き上げで、駆け込み需要の反動による消費低迷が起き、物価上昇が鈍化した。
5.国際人脈のありがたさ
財務省、アジア開発銀行(ADB)、日銀などでの仕事を通じ、諸外国の政府当局や学者と多く出会い、たくさんのことを学んだ。
(1)アフリカの低開発途上国の支援に尽力したミシェル・カムドシュ元国際通貨基金(IMF)専務理事だ。専務理事に就任後、いち早く低開発途上国に対する拡大構造調整ファシリティを創設させた。
(2)マリオ・ドラギ前欧州中央銀行(ECB)総裁だ(後にイタリア首相になった)。ある国際会議で「金融緩和が長続きすると『ゾンビ企業』が生き残る」という問題提起に対し、ECB総裁の彼が「いま金融を引き締めて健全な企業まで潰してしまえと言うのか」と一喝したのを目撃した。迫力を感じた。
(3)クリスティーヌ・ラガルドECB総裁との思い出も多い。08年2月、彼女がフランス経済財務雇用相として参加した東京での主要7か国(G7)財務相・中央銀行総裁会議。当時の石油価格高騰の原因に石油デリバティブ(金融派生商品)があると力説し、ハンク・ポールソン米財務長官を防戦一方に追い込んだ。
(4)米財務長官を務めるジャネット・イエレン氏とは、彼女が米連邦準備理事(FRB)議長時代によく話した。15年にギリシャ国債が事実上の債務不履行(デフォルト)に陥ると、私が,ドイツなどが「銀行が持つ自国通貨建ての国債にもリスクウェートをかけて、リスク資産と見なすべきだ」と主張した。その時にイエレン氏は毅然として日本の反対に同調してくれた。
(5)インドのアマセルチィア・セン教授、米国のジョセフ・スティグリッツ教授やポール・グールマン教授などノーベル経済学賞の受賞学者ともいろいろな機会に交流した。難しい経済理論は決して述べず、日本の問題を具体的に指摘して対策の示唆をくれた。
黒田 東彦 | |
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2011年 | |
第31代 日本銀行総裁 | |
任期 2013年3月20日 – 2023年4月8日 | |
首相 | 安倍晋三 菅義偉 岸田文雄 |
代理官 | 雨宮正佳 若田部昌澄 |
前任者 | 白川方明 |
後任者 | 植田和男 |
第8代アジア開発銀行総裁 | |
任期 2005年2月1日 – 2013年3月18日 | |
首相 | 小泉純一郎 安倍晋三 福田康夫 麻生太郎 鳩山由紀夫 菅直人 野田佳彦 安倍晋三 |
前任者 | 千野忠男 |
後任者 | 中尾武彦 |
内閣官房参与 | |
任期 2003年3月 – 2005年1月 | |
首相 | 小泉純一郎 |
財務官 | |
任期 1999年7月8日 – 2003年1月14日 | |
首相 | 小渕恵三 森喜朗 小泉純一郎 |
前任者 | 榊原英資 |
後任者 | 溝口善兵衛 |
国際金融局長 (国際局長) | |
任期 1997年7月15日 – 1999年7月8日 | |
首相 | 橋本龍太郎 小渕恵三 |
前任者 | 榊原英資 |
後任者 | 溝口善兵衛 |
個人情報 | |
生誕 | 1944年10月25日(80歳) 福岡県大牟田市 |
国籍 | 日本 |
配偶者 | 黒田久美子(有馬駿二の長女)[1] |
親族 | 義父:有馬駿二(電源開発理事)[2] 義祖父:有馬敬之助(大倉商事受渡係主任)[3] |
出身校 | 東京大学法学部 オックスフォード大学経済学研究科(経済学修士) |
署名 |
黒田 東彦(くろだ はるひこ、1944年〈昭和19年〉10月25日 - )は、日本の銀行家、財務官僚。第31代日本銀行総裁。財務官を最後に退官し、一橋大学大学院教授、アジア開発銀行総裁を経て着任した。財務省内での愛称はクロトンである[4]。