宇佐美洵 うさみ まこと

金融

掲載時肩書日本銀行総裁
掲載期間1971/01/01〜1971/01/29
出身地東京都三田
生年月日1901/02/05
掲載回数29 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶應予科
入社三菱銀行
配偶者日本製粉社長娘、結城豊太郎(仲人)
主な仕事上海、紐育、三菱・第百銀合併、 近江絹糸争議、頭取、日銀総裁、山一証券特融
恩師・恩人池田成淋、加藤武男、
人脈中司清・服部正次・永沢邦男(同期),青木均一、藤野忠次郎、佐橋滋、桜田武、岩佐凱美、中山素平、佐々木直、田実渉
備考父:貴族院議員、母(池田成彬妹)弟(宮内庁長官)
論評

1901年〈明治34年〉2月5日 – 1983年〈昭和58年〉2月19日)は東京生まれ。財界人。慶大から三菱銀行に入社し、同行頭取、全国銀行協会会長を経て、第21代日本銀行総裁。母よしの実兄は三井財閥の大番頭、日銀総裁や大蔵大臣を歴任した池田成彬で、母の妹の夫は三菱銀行元頭取の加藤武男である。弟の宇佐美毅は元宮内庁長官。日銀総裁に就任した宇佐美は、民間出身として日銀に新風を吹き込み「法王庁」とまで呼ばれた日銀を開かれたものにしようと努力した。とりわけ金融界、産業界とのパイプ役として評価を高めた。また、インフレ対策にも忙殺された。1969年(昭和44年)任期満了にともない退任。その後金融制度調査会長などを務めた。

1.三菱本社の解体
昭和21年(1946)10月から具体的作業が行なわれ、22年には過度経済力集中排除法の施行などがあって、三菱商事、重工業、地所などが次つぎと分割、解散することになった。だが、銀行はこの法律の適用外となり三菱銀行はほぼそのままの規模で残ることとなった。
 しかし三菱商事は22年7月、GHQからの名指しの解散命令を受けて、資本金19万5千円以下、従業員百人未満の小会社に分割された。たしか80社近くにも分けられたからひどいものであった。豪華なガラス器を床に叩きつけて、木っ端みじんに砕いたようなものであった。
 三菱重工業もこれにより、25年1月、東、西、中の日本重工業3社に分割された。船も自動車も製造まかりならぬということで、ナベ、カマを造らざるを得ないのであった。造れるものは何でも手を出さねば立ち行けない時代であった。

2.日銀総裁に就任
昭和39年(1964)も押し詰まった12月7日、田中角栄大蔵大臣から突然電話があった。「佐藤栄作総理があなたに会いたがっているから、行って欲しい。午後1時に首相官邸でお待ちしている」といことだった。
官邸に伺う前に田中蔵相に会うと、「副総裁は誰がいいだろう」と言われる。私は大学を卒業して以来、一貫して民間銀行の仕事をやってきた男だが、中央銀行のことはよく知らない。政策に対する希望や意見なら日頃からなくはなかったが、実務に関しては素人である。当然、万事をよく承知している佐々木直副総裁に引き続きお願いすることになった。
官邸で佐藤総理から辞令を受け取って外に出ると、玄関にはもう日銀の車が私を待っていた。今日ただ今からこれを使って欲しいということで、なかなか厳格なことだと思った。車で直ちに山際正道前総裁の田園調布のお宅に伺った。山際さんは、自宅で病気療養されていたのである。

3.山一証券の無担保・無制限の特融背景
昭和40年(1965)6月、私が日銀総裁に就任してから間もなく行った山一證券への特別融資の際は、若い時の経験が大いに役立った。それは三菱銀行に入って3年目の昭和2年(1927)、神戸支店の近くに第十五銀行が取り付け騒ぎで閉鎖してしまい、人心不安に陥った時の混乱は大変なものであった。そして、のちに私は、昭和8年(1933)の米国の大恐慌もニューヨーク支店で経験した。米国の恐慌は一段と規模が大きく、経済界の混乱は目を覆うほどであった。各所で相互不信が尾を引き厭な思いをしたのだった。
 山一証券に巨額の金を無担保、無期限で貸そうというのだから、世間は驚きもし、いろいろの批判もあったようだが、もしここで証券界の混乱を見過ごせば、問題は山一という一会社にとどまるはずがないというのが私たちの考えであった。
 大蔵省への連絡は、当時の佐々木副総裁が立った。私が動くと妙に目立って、まとまるものも纏まらなく恐れがあったからだ。田中蔵相はじめ大蔵省も私どもと同じ考えであり、ことは直ちに行われた。

宇佐美 洵(うさみ まこと、1901年明治34年〉2月5日 - 1983年昭和58年〉2月19日)は、日本の財界人。慶大から三菱銀行に入社し、同行頭取、全国銀行協会会長を経て、第21代日本銀行総裁

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