掲載時肩書 | 三菱電機相談役 |
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掲載期間 | 1964/09/25〜1964/10/23 |
出身地 | 茨城県北条 |
生年月日 | 1892/03/01 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 二高 |
入社 | 三菱合資 |
配偶者 | 見合:素封家娘 |
主な仕事 | 三菱銀行、英国留学、三菱電機、商標商号停止交渉(三井346、三菱205、住友160)、経済研究所 |
恩師・恩人 | 北玲吉先生 |
人脈 | 岡野保次郎・石黒俊夫(同期入社)商号・商標禁止令:「江戸英雄(三井)・花崎俊義(住友)とGHQ交渉」、古川鉄次郎、式守伊之助、石坂泰三 |
備考 | 頭山満尊敬、趣味:囲碁・書道 |
1892年(明治25年)3月1日 – 1978年(昭和53年)6月6日)は茨城県生まれ。実業家。1956年(昭和31年)11月 – 三菱電機会長。1965年(昭和40年)6月 – 日韓会談の首席代表として日韓基本条約等に調印。1969年(昭和44年) – 海外経済協力基金総裁。戦後のGHQ指令による一連の財閥解体にトドメをさす「商号・商標禁止令」を三井・三菱・住友の3財閥の代表の一人として、阻止するため活躍された記述はとても興味深いものでした。
1.岩崎小弥太社長の思い出
昭和16年(1941)の秋、私は名古屋支店長に就任した。戦争が始まると、1にも2にも飛行機で名古屋の三菱重工航空機製作所は大変なウェートを持ってきた。岩崎社長はときどき航空機生産を視察、激励のため名古屋に来られた。社長は三菱各社の社長級の重役を必ず2,3人連れてこられた。駅には各場所(製作)長や駅長らが出迎えている。駅を出ると、関係者の自動車がズラリと並んでいた。宿舎は名古屋ホテルの2階のロビーを借り切っていて、社長は着くともう関係者といろいろ話を進められる。
当時の三菱では、私など各場所(製作)長クラスは東京にいては到底社長にお目にかかることができない。地方に来られた時だけ、そこにいる場所長という資格で目通りができるというわけだ。私はその特権で社長の名古屋視察のたびに付いて回ることができた。
岩崎社長は身長5尺8寸(176cm)ぐらい、若い頃は30貫(112kg)以上もあったといい、堂々たる押し出しだった。温厚にして聡明よく人の言を入れた人だ。ある時、社長は撃墜されたB29の合成樹脂ガラスの一片を日本化成の重役に示し「研究してこれと同じものをこしらえろ」と命令した。そう言われても容易に作れるものではなかったが、社長命令なので一生懸命研究して、とうとう完成させたという話だ。社長は万事にそういう人なので、工場視察の時も、これこれの点にもっと力を入れろと、細かく注意を与えていた。
2.商号・商標の禁止令への財閥対応
戦後のGHQ指令による一連の財閥解体にトドメをさす「商号・商標禁止令」は昭和23年(1948)8月19日に発せられた。「三井、三菱、住友の3財閥は昭和25年6月までにその商号商標を変更し、26年7月1日より向こう7年間これを使用してはならない」と指示してきた。このとき三井系の会社は346社、三菱系205社、住友系は160社であったが、その全部の商号商標を取り上げるというのである。この主旨は、財閥の企業は白紙に戻って、改めて事業競争のスタートを切れというのである。けれども、我々にとっては「三菱」という商号と赤いスリーダイヤの商標は、明治以来の「のれん」であった。そのマークの付いた商品は世界的な信用を得てきたのだ。それが使えないとあっては三菱各社の受ける被害は、貿易の面だけを見ても計り知れないものがある。もう一つ困ったのは、商号の変更に莫大な費用がかかることだった。
同じような事情は三井、住友グループについても全く同様だった。そこで25年の初めハッチンソンという米国弁護人に依頼して、この使用禁止令を廃棄するよう財閥3グループ共同で働きかけることにした。一方、ハッチンソン氏に米国側ばかり頼むわけにいかないので、日本側も高柳賢三(三菱顧問弁護士)氏と細野軍治(住友顧問弁護士)氏をも立てて、GHQと日本政府に精力的に働きかけてもらった。
しかしなかなかうまく進展しないので、禁止令が実施される約2か月前の25年4月某日、三井代表山川良一氏、江戸英雄氏、住友代表花崎利義氏、それに三菱代表の私を加えた4人は、吉田茂首相に相談して、マッカーサー元帥に直接話してもらうよう要請した。そして二人のTOP会談が行われた結果、同年5月末、この禁止令は1年間延長になり、翌年もう一年の再延長となったのであった。これには吉田首相はもちろん、ハッチンソン氏や高柳氏、細野氏らの熱烈な運動があったこともあるが、何よりも朝鮮動乱で米国が日本を共産主義の防壁に育てようと考え、この際日本財界の感情を無視してまで、この問題を強行すべきでないと判断したことが大きかったのではないかと思う。
そして、昭和27年4月28日、講和条約発効の日をもって、この禁止令は自然消滅したのである。
3.頭山満翁
私は四谷支店長のころ一度お会いしただけだが、そのときの頭山さんは五尺七、八寸(約175cm)はあろうと思われる長身に浅黄色の羽織袴をまとい、ひげを蓄え、堂々たる恰幅で現れた。私たち6,7人で食事を共にしながら翁の話を聞いていたのだが、私はその人間の底知れぬ大きさに打たれた。そのとき翁は禅について興味ある話をされた。
翁は無位無官、無私無欲、生涯を浪人で通しながらあらゆる階級の人から尊敬された。格別学問された人ではないが、幾たびか生死の間をくぐった体験によって悟りを開いた達道の偉人と言っていい。翁を右翼の親玉のように言う人もあるが、蒋介石は翁の指導によってあれだけの革命に成功したと言われるほどだし、インドから日本に亡命したチャンドラ・ボース氏も翁の世話になった。翁は老子のように余計なことは言わず、全てに超然としていた。翁こそ「物外の哲学」の実践者であったと私は思う。翁の号を「立雲」という。雲の上に素っ裸で立っている心境の意だと聞く。