掲載時肩書 | 女優 |
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掲載期間 | 2009/03/01〜2009/03/31 |
出身地 | 茨城県 |
生年月日 | 1931/12/05 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 78 歳 |
最終学歴 | 高等学校 |
学歴その他 | 都立第十高女 |
入社 | 新東宝 |
配偶者 | 読売記者 |
主な仕事 | 監督荒し27名、フリー、舞台、NY赴任 、テレビ、映画の語り部、 |
恩師・恩人 | マネジャ 永島(叔父) |
人脈 | 監督(成瀬、小津、溝口、黒沢9)、西条八十、石井ふく子、長谷川一夫、三船敏郎、高峰秀子、山田五十鈴、池辺晋一郎 |
備考 | 染五郎(幸四郎)嫁は親戚 |
1931年12月5日、茨城県生まれ。日本の大手映画会社間の五社協定ができる前の1953年にフリーになったおかげで、各映画会社の映画黄金期の多くの巨匠たちの作品に出演するという幸運に恵まれている。この多くの巨匠の様々な役に自身がキャスティングされたことについて、本人は個性のない普通の雰囲気が使いやすかった。(起用してくれた監督数27名) 黒澤作品に出演すると、看板役者であった三船敏郎の恋人または妻役を演じることが多かった。2010年の黒澤明誕生100年にあたっては、仲代達矢と回想対談した(『文藝春秋』2010年7月号、「私たちのクロサワ悶絶体験 生誕100年」)。黒澤作品においては、三船敏郎と、女優としては最も多い9回の共演回数をほこる。
1.成瀬巳喜男監督のマジック
成瀬監督は、女性映画の名手として知られている。夫婦の機微や家族、女性の細やかな心理を描くのが上手だった。私が女優としての手ごたえを感じた作品が、成瀬監督の「銀座化粧」(1951)だ。
成瀬監督の撮影現場は静かなことで有名だった。予算と期日はきちんと守り、仕事は午前九時から夕方5時の定時で規則的に終わる。成瀬組は殆ど残業がなかった。カメラ位置を固定して、いくつかの場面の映像を纏めて撮る「中抜き」も多かった。短いカットを重ねていくような感じで、私には目の動きとか、座り方とか、ちょっとした動作で感情を表現する勉強になった。こうした細かいカットを最後にピタリと収めてしまうのだから、まさに成瀬マジックであった。
監督さんが静かなので周りも静かだった。時々、フフフフッと、お笑いになったが、それで優しいかというと、厳しい目をしていらした。大きな声を出したことはないが、やり過ぎの演技を嫌った。私は言われるままやったという感じで、のびのびと楽しくさせていただいた。
2.溝口健二監督の演出(反射して・・)
溝口監督の「近松物語」で、長谷川一夫さんの茂兵衛、私のおさんで映画を撮ることになった。この映画で、監督演出の洗礼をまともに受けた。「もう1回」。監督さんは演技が気に入らないと、何度も同じ場面のやり直しをさせた。理由はおっしゃらない。考えるのは俳優の仕事ということなのだ。相手役の長谷川さんやスタッフの方々が私の演技に「OK」が出るのをずっと待っている。申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
監督さんからは「反射してください」ともよく言われた。私はどうしようかと思って、死にたくなるほど苦しんだ。試行錯誤しているうちに、セリフは、相手の言葉や動作によって生まれるもので、その時の気持ちになれば自然に出てくるということ、それが反射なのだと気がついた。この芝居の根本を溝口監督の映画で叩き込まれた。この映画が、この後の私の女優人生を支えるものとなった。
3.長谷川一夫さんは気くばりの人
長谷川さんと共演させていただいた9本のうち、明治物「7つの顔の銀次」(1955)を除き、8本は時代劇だ。長谷川さんは美しく見える所作をよく知っておられ、私は色気のない方なので、こうしたら女らしく見えるとか、手取り足取り教えてくださった。また、あのライトがちょっと弱いと照明のことまで指摘し、立ち回りの動きも全部計算していらした。撮影現場でも大スターぶることなく、周りの人に気を配っておられた。
4.黒澤明監督
1957年(昭和32)の「どん底」が最初の出演である。ゴーリキーの原作を江戸の長屋に移し、大家の妻お杉が山田五十鈴さん、私は妹のかよ役で、私に思いを寄せる泥棒の捨吉が三船敏郎さんである。監督さんは、生きている人間の雑草のような生命力を描こうとされたようだ。
監督さんは撮影所に落語家の古今亭志ん生師匠を招き、「粗忽長屋」の一席を語ってもらった。出演者やスタッフに江戸時代の長屋の雰囲気を理解させるためだった。粗末な畳の狭い部屋で語ってくださったが、みんな真剣に聞いているのであまり笑いが起こらない。志ん生師匠もやりにくかったことだろうと思う。
リハーサルは1か月。衣装はボロボロで、引っ張ると縦に裂けてしまうほどだった。監督さんの演出は溝口監督と共通点があるように思った。まず、カットが長いことだが、長いお芝居は感情が途切れないので私は好きだ。どこから撮られているのか、カメラの位置を気にしないで済む点でも苦ではなかった。ただ女性に対しては細かくおっしゃらないから、自分で考えなければならなかった。
黒沢組の特色として、カメラを何台も置いて、一度にいろいろな角度から撮影していくから、どんなふうに自分が撮られているのか、一瞬も気が抜けない。黒沢映画では、いつでも周囲のことに反応して、演技を休むことは許されないのだ。
かがわ きょうこ 香川 京子 | |||||||||||||||||||
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『映画情報』1957年2月号より | |||||||||||||||||||
本名 | 牧野 香子(旧姓:池辺) | ||||||||||||||||||
生年月日 | 1931年12月5日(92歳) | ||||||||||||||||||
出生地 | 日本・茨城県行方郡麻生町 (現︰行方市)[1] | ||||||||||||||||||
身長 | 162 cm | ||||||||||||||||||
職業 | 女優 | ||||||||||||||||||
ジャンル | 映画・テレビドラマ | ||||||||||||||||||
活動期間 | 1950年 - | ||||||||||||||||||
配偶者 | あり | ||||||||||||||||||
主な作品 | |||||||||||||||||||
映画 テレビドラマ | |||||||||||||||||||
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香川 京子(かがわ きょうこ[3]、1931年〈昭和6年〉12月5日[出典 1] - )は、日本の女優。本名は、
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