掲載時肩書 | 東京都知事 |
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掲載期間 | 1982/08/18〜1982/09/14 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1910/11/06 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 内務省 |
配偶者 | 省先輩娘 |
主な仕事 | 陸軍経理学校、召集中国、東京(府・市)→都、GHQ交渉、海外視察、官房副長官、副知事(東)、東京五輪、大阪万博、都知事 |
恩師・恩人 | 南原繫、大内兵衛 |
人脈 | 友納武人、奥田誠亮、木村俊夫(三高)、斎藤邦吉(内務同期)、迫水久常、法華津孝太、古井善実、小林与三次 |
備考 | 地方自治 の生き証人 |
1910年〈明治43年〉11月6日 – 2010年〈平成22年〉5月14日)は東京生まれ。政治家、内務・自治官僚。1947年12月31日の内務省分割後は地方自治庁に配属され、1950年から1953年7月まで地方自治庁次長(在任中に事務次官に改称となり)、1958年まで自治庁事務次官を務め、事務次官在任期間としては戦後最長の8年間だった。地方自治法を初めとする地方財政法、自治大学校設置法、地方公営企業法、地方税法、公職選挙法などの地方自治関連法や東京都の制度成立に尽力した。また、1979年~1995年の4期16年にわたり東京都知事を務めた。そして日本万国博覧会事務総長を務め、大阪万博に携わり、首都高速道路公団理事長にも就任した。
1.内閣参事官時代
終戦の約1年前の昭和19年(1944)7月、私は内閣参事官となった。各省庁間の重要行政の連絡、調整の他、必要な企画立案もやった。勅任の参事官が大蔵省から来た迫水久常さんと内務省からの大島弘夫さんの二人、そのほか外務省から法華津孝太さん、大蔵省からの石野信一さん、軍需省から大堀博さんと内務省からの私と4人がいた。当時、戦争の終結を図ろうとする小磯首相と杉山陸相が、官邸で二日ぐらい夜っぴて議論をしているということもあった。また、私の所属する計画局には陸、海軍省の軍務課の若手将校がよく来ていた。彼らは「いずれ、本土決戦になる。その時に備え国民義勇軍をつくれ」「竹槍部隊を編成し、米軍の上陸に備えよ」と言ったことを強引に要求していた。計画局は、これらの軍の要求と政府の間に立って、本土決戦に備え、非常措置要綱を策定したり、地方総監府設置の準備をするなどが、当面の緊急課題だった。それにしても、彼らのうち何人かは敗戦の日に自決して果てられた。
2.内務省解体
明治6年(1873)に発足して以来の長い歴史と伝統を持つ内務省は、GHQの指令により昭和22年(1947)12月31日廃止となり、除夜の鐘とともにその名を消した。GHQの内務省に対する態度は占領当初から厳しかった。同年4月30日、「内務省の分権化に関するホイットニー覚書」を公布し、内務省解体の方針を正式に打ち出してきた。
問題になったのは、地方財政が大蔵省の一部局になってしまえば、地方財政は国家財政に従属し、税の配分も国優先となり、地方が後回しにされるのは火を見るより明らかだった。財政基盤がなくなれば地方自治は崩壊してしまう。これは内務省解体廃止以上に重大事である。我々は、この構想に猛反対し、GHQも我々の主張を認めてくれた。そして、昭和23年1月1日に現在の自治省、建設省、厚生省、労働省、国土庁、警察庁、消防庁、法制局、議会事務局などに分割・独立した。
3.自治庁次長・次官時代
米国出張から戻った直後の昭和25年(1950)5月、私は地方自治庁の次長に就任した。以後、自治庁次長、自治庁次官と8年にわたって次官(次長を含む)を務めた。このレコードは今もって破られていない。
昭和26年(1951)5月にGHQは、「占領下諸法令再検討の献言を日本政府に認める」との声明を出した。この声明に従って、中央および地方の行政簡素化本部なども設けられ、さまざまな角度からの見直しが一斉に始まった。
私は地方自治法をはじめ地方財政法、地方公務員法、自治大学校設置法、地方公営企業法、地方公営企業労働関係法、地方税法、地方交付税法、地方譲与税法、町村合併促進法、公職選挙法、教育委員会法、教育公務員特例法、義務教育費国庫負担法、警察法、消防法、消防組織法、地方財政再建促進特別措置法等々の制定改廃に全て関与した。
いずれも、いまの地方自治の土台になっているものばかりだ。その一つ一つに尽きぬ思い出がある。
鈴木 俊一(すずき しゅんいち)