法華津孝太 ほけつ こうた

水産・鉱業

掲載時肩書極洋捕鯨社長
掲載期間1967/07/10〜1967/07/31
出身地東京都神田
生年月日1903/07/30
掲載回数22 回
執筆時年齢64 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他水戸高、プリンストン大学
入社外務省
配偶者見合い2回で
主な仕事米国留学、満州・本省(リットン調査立会)・国際連盟事務局、ベルリン、企画院、極洋捕鯨
恩師・恩人吉田茂
人脈古川禄波・サトウハチロー・小川栄一・江戸英雄・赤城宗徳、曽根益(省同期)重宗葵、有吉義弥、東郷茂徳
備考父(南洋ゴム社長)の友(森村市左衛門)
論評

1903(明治36年7月30日)-1988(昭和63年8月6日)東京生まれ。 昭和時代の外交官,経営者。外務省にはいり,奉天総領事館,ベルリン大使館勤務をへて,昭和21年調査局長となる。23年退官後,極洋捕鯨(現極洋)にはいり,29年社長,41年会長。山階(やましな)鳥類研究所専務理事。

1.山本五十六氏はカケの天才
私が正式に外交官補として駐米大使館に赴任したのは、プリンストン大学で1年3か月道草を食ってからの昭和3年(1928)ごろだった。最初に大使館に行った時、海軍武官に挨拶に行った。その武官が山本五十六海軍大佐であった。山本さんは私の顔を見ると、いきなり「君はバクチをやるか」と訊ねられた。バクチはやりませんが・・と答えると、山本さんは「バクチをやらないヤツには用はない」と頭ごなしに切り返された。あとで分ったことだが山本さんは何をするにも立ち上がりをバシッと叩く癖があった。
 山本さんはカケの天才と言われ、特にカードは強かった。横で見ているとここと思うところは大きなバクチを打ったが、堅くやるところは非常に手堅くやっていた。何かのことで大使のところに呼ばれたとき、私は初めて山本さんと将棋を指した。山本さんの将棋は攻め一方の豪快な将棋で、私はあっという間に負かされた。そこでその次からは私は守りの将棋をとり、3番棒に勝った。以後山本さんは私と将棋をしなかった。

2.米国の暗号解読力
私が駐米大使館で暗号解読をしていたころ、ある米国人が大使に会いたいと言ってきた。この米人は例の暗号解読書「ブラック・チエンバー」の著者だった。彼は米政府に雇われて暗号解読に当たっていたが、行政整理でクビになったので、ついては日本大使館に暗号解読の仕方を教えたい、というのである。
 そこで一つテストしてみようとなり、暗号電信を2,3通渡したところ、何と彼は翌朝全部解読して持参した。これは、我々の打った電信はすべて米側に解読されていたということである。驚いて本省にその米人の採用の可否を問い合わせようとすると、その米人は、その連絡は電信ではいけない。手紙にしないと解読される、という。そこで考えたあげく館長符号といって館長つまり大使だけが持っている特別の符号にまず組んだうえで、さらにもう一度極秘の暗号に組み換えて本省に打電した。ところが翌朝になると、またその米人が現れて「打ってはいけないと言ったろう」と言って解読した電信を差し出した。
 結局本省の意向でその米人は不採用に決まったが、その理由はその程度の解読なら日本側でもできる自信があったからだという。

3.ポツダム宣言受諾の文言作成に参加
1945年8月13日午後、陛下より関係大臣及び重臣に対し至急のお召しがあった。陛下の御前に出るには礼装しなければならないのだが、そんなことをしているとまた軍から横ヤリが入る怖れがあるので、特に「通常服のままで差し支えなし」とのお言葉があったのだった。こうして翌14日早暁ポツダム宣言受諾が決定されたのである。受諾の文言は即刻内閣で作成し、外務省がスイスを通じて連合軍に通告する手はずが整い、私も内閣での文言作成に参加した。ところがここでも軍の若手が次つぎと字句に文句をつけるので、文言の作成は一向にはかどらない。外務省からは私のところにまだかまだかの督促が来る。
 時間がかかればそれだけ空襲の被害が増える。そこで外務省では、とりあえずポツダム宣言を受諾したことだけでも、一刻も早く英米に知らそうと考えたが、しかし外務省の電信室は軍刀片手の将校に占拠され、中央郵便局まで若手将校に押さえられていたので、14日夜、最後に残されていた放送局の短波放送を通じて、ポツダム宣言受諾の旨を全世界に放送させた。これが終戦の第一報となったのだが、軍の妨害がなければ終戦は1日早められ、その分だけ爆撃による無用な犠牲者を出さずに済んだはずであった。

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