芸術
| 掲載時肩書 | シンガー・ソングライター |
|---|---|
| 掲載期間 | 2025/11/01〜2025/11/30 |
| 出身地 | 福岡県 |
| 生年月日 | 1948/02/19 |
| 掲載回数 | 29 回 |
| 執筆時年齢 | 77 歳 |
| 最終学歴 | 西南学院大学 |
| 学歴その他 | 福岡県立香椎高 |
| 入社 | チューリップ結成 |
| 配偶者 | 知都子(11下) |
| 主な仕事 | ビートルズ出会い(高2)、フォーシンガーズ、「私の小さな人生」、コンサートツアー7万人、雨の鈴鹿、独立、解散、、俳優、 |
| 恩師・恩人 | 新田和長、草野昌一 |
| 人脈 | 吉田彰、小田和正、末広信幸、宗田慎二、姫野達也、松本隆、松任谷正隆・由実、薬師丸ひろ子、桃井かおり |
| 備考 | チューリップ18年間実績(シングル34枚、アルバム34枚、ライブ1244回) |
氏は作曲家として、山田耕筰、古賀政男、服部良一、吉田正、船村徹、遠藤実、團伊玖磨、小椋佳、服部克久、村井邦彦、池辺晋一郎の諸氏に次いで12番目の「私の履歴書」登場である。作詞家は、西條八十、阿久悠、湯川れい子の3人であるが、シンガー・ソングライターの肩書で登場は初めてでした。
1.ビートルズとの出会い
高校2年(1964年8月)、映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」が日本で公開された。一瞬で歌と音楽の虜になった。66年に日本武道館のビートルズ・コンサートを見た。最先端の楽器を使って、次から次へと聴いたこともない音を出してくる。十分お金を稼いで、悠々自適でもいいはずなのに、攻めの姿勢は揺るがない。それでいて決して綺麗に纏まらない。どこかヘタウマ的なざらついた手触りがあった。同世代に優れた音楽家は沢山いたはずだが、私にとってそうしたビートルズの姿勢とサウンドが、代えがたい魅力だった。ドラムのこの硬い音はどんなふうに出すんだろうといった具合で、ミュージシャンというよりは、エンジニアのような視点でビートルズの音楽に触れていたと思う。どれだけ分析しても、楽器がないから、再現することもできないのだが、コンサートを見たことで「ビートルズみたいになりたい」という夢が芽生えた。
2.チューリップの結成
1969年、いままでのフォーシンガーズを解散し、チューリップを結成した。メンバーは私の他、吉田彰、末広信幸君に加え宗田慎二君の4人だ。当時の福岡で8ビートをたたけるドラマーが見つからず、吉田のベースと3人がギターを弾いて歌う編成だ。自作曲を歌う点で「ビートルズみたい」ではあった。
ターゲットを第4回全日本ライト・ミュージック・コンテスト(LMC)に絞り猛練習した。楽器の編成は限られているから、コーラスの練習が主体となる。どんな音を重ねるかは勿論だが、声の音量のバランスに気を配った。当時は一人ずつのマイクなどないから、1本のマイクからの距離の取り方で、美しいバランスを探るのだ。
そして70年のLMC。オリジナル曲「柱時計が10時半」で九州大会を勝ち抜いた。九州大会に審査委員として来ていた作曲家の中村八大さんに、もともとは予定になかった「作曲賞」もいただいた。優勝間違いなしと自信たっぷりで全国大会に臨んだが、それでも2位どまりだった。
3.本格デビュー
メンバーが入れ替わった新生チューリップのデビュー曲「魔法の黄色い靴」と同名のアルバムは、1972年6月5日に発売された。アルバムは福岡時代から演奏していた曲と、上京してから仕上げた曲が半々だ。ビートルズのように、複数のメンバーがリードボーカルを取っているような雰囲気を出そうと、私がいろいろ声色を変えて曲の雰囲気にバラエティを持たせる工夫をした。しかし、初めてのプロの録音現場で戸惑いも多かった。それでも、ギターの音をうねらせるために既に録った音を再生するスピーカーを回転させてその音を拾ったり、バスドラムを引き締まった音にするためにタオルを詰めたり、新田和長さんから次々に出るアイデァが新鮮だった。
新田さんのアイデァで、アルバム最後の曲は交響曲風にアレンジした「大魔法の黄色い靴」。豊かな構成の作品になったと思う。プロモーションでラジオ局をまわると皆いいと言ってくれる。評論家も好意的で、手ごたえは十分だった。だが、売れなかった。
4.ポール・マッカートニーの人柄
1976年1月、ポール・マッカートニーと対面した。ポールが「なんかやってみて」と言う。姫野達也がピアノで「レディ・マドンナ」のイントロを弾き始めると、彼はベースで合わせてくれた。ほんの数小節のことだったが、至福の時間だった。それは所属事務所の皆で欧州旅行をした際、世話になったエンジニアに挨拶に行くと、たまたまポールがウィングスの新作を録音していた。頼み込んで会わせてもらうことになったが、周囲のガードは堅く、「ポールはナーバスになっているから短時間で済ませてくれ」としっこく念を押された。でも、ポールは嫌な顔も見せず対応してくれた。日本がどこにあるかも知らないようだったが。
気の利いたものを持ち合わせがなかったので、趣味で持ち歩いていたニコンのカメラを妻のリンダにプレゼントした。リンダはもともとフォトグラファーだったので、日本のカメラの優秀さを知っていると思ったのだ。痛恨なのは、ポールと2ショットで撮ったフィルムを入れたまま渡してしまったことだ・・・
5.雨の鈴蘭コンサートで聴衆との絆に気づく
1980年7月26日、岐阜県の鈴蘭高原スキー場で開いた。ファンの間では「雨の鈴蘭」として、半ば伝説になっているコンサートだ。午後1時25分、雨が降り始める。この日の聴衆は貸切にした3本の新幹線などを経て320台のバスに分乗した1万5千人。雨は激しさを増してゆく。だが、皆がここにいる以上、コンサートを中止するという選択肢はなかった。プラネタリウム、花火大会といったアトラクションは中止し、開演時間を午後11時から9時に前倒しした。
開演1時間前になりステージには急ごしらえの屋根をかけた。聴衆は20センチほど冠水したスキー場でひたすら待っていた。そして、9時半にようやく開演。1曲目はこの日のために用意した新曲「Shooting Star」だ。夏とはいえ、雨の高原は冷える。気温は10度を切り、楽器を持つ手がかじかんだ。音にならないし、歌にならない。なのに、なぜだろう、どんどん盛り上がる。終演後、演奏は最悪だったけれど、ともあれ終わってよかったと思いながら、考え込んでしまった。なぜブーイングが出なかったのだろう、なぜ合唱まで起きたのだろう。なぜいつもより、バンドと聴衆の絆を強く感じたのだろう。
これがコンサートの素晴らしさなのだと感じ入るのと同時に、「自分たちの歌とか音とか、聴いていないな」という感覚が湧いた。言い方は悪いが、それまでの私は「このサウンドいいだろう。聴かせてやる」という感じで、表現したものがつぶさに伝わっていると誤解していた。バンドと聴衆は音楽だけで繋がっていたのではないのだ。ライブを成立させるには、トークなど音楽以外の付加価値も大切だ。コミュニケーションを深め、バンドのキャリアと聴衆の人生を重ねられるように、絆を太くしていこう。演奏する者としてようやく大人になった実感があった。
6.戦友・小田和正
1985年6月、松任谷由実さん、小田和正さんとの共作シングル「今だから」を発表した。ユーミンの発案だ。6歳下だがデビュー時期はあまり変わらず、テレビの歌番組でたびたび一緒になっていた。
小田さんは最初の音楽コンテストで出会い、彼のファンクラブにも入るなど敬意を抱いていた。彼の音楽がきれいに盛り付けられた懐石料理だとすれば、私の音楽は雑多なバイキングのようなものという違いはあるが、同学年の小田さんの歩みは、私にとって常に指針となってきた。
二人とも、日本の音楽がそれまでの演歌や歌謡曲から、英米の音楽に影響を受けたポップスに転換する過程で旧来の価値観と戦ってきた「戦友」だという思いがある。私たちを総称したニューミュージックという言葉は、レコード会社の販売戦略だが、音楽業界をアーティスト主導にするために奮闘した同志だ。
曲作りの打合せで、彼らは「こうしよう」と確信を持ってテキパキ物事を進めていく。3人共作という建前だから私も一応意見を言うが、「こうした方がいいんじゃない?」とまわりくどい言い方なので、彼らのテンポに合わない。結果、私の意見はほぼ採り入れられなかった。
この曲は国立競技場に6万人を集めた大イベント「ALL TOGETHER NOW」でレコーディングに参加した坂本龍一さん、高橋幸宏さんらとともにライブで披露した。こうした顔ぶれがそろった話題性は抜群で、2週連続1位のヒットにもなった。
| 財津 和夫 | |
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| 出生名 | 財津 和夫 |
| 生誕 | 1948年2月19日(77歳) |
| 出身地 | |
| 学歴 | 西南学院大学法学部中退 |
| ジャンル | |
| 職業 | |
| 担当楽器 | |
| 活動期間 | 1969年 - |
| レーベル | |
| 共同作業者 | |
| 公式サイト | 財津和夫オフィシャルサイト |
| 著名使用楽器 | |
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財津 和夫(ざいつ かずお、1948年〈昭和23年〉2月19日[2] - )は、日本のシンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー、ラジオDJ、俳優。大阪芸術大学芸術学部演奏学科教授[注 1]。血液型O型。福岡県福岡市出身[2]。
日本のロックバンド「チューリップ」のリーダーで、「和製ポール・マッカートニー」と呼ばれる日本のメロディメーカーと評されている[3]。
- ^ “財津和夫(ザイツカズオ)の情報まとめ”. OKMusic. OKWAVE. 2022年4月18日閲覧。
- ^ a b 『DJ名鑑 1987』三才ブックス、1987年2月15日、81頁。
- ^ “ミュージシャン 財津和夫さん”. TOKYO FM『ゆうちょ LETTER for LINKS』番組オフィシャルサイト (2014年3月23日). 2015年6月8日閲覧。
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