掲載時肩書 | 野球解説者 |
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掲載期間 | 1992/08/01〜1992/08/31 |
出身地 | 和歌山県 |
生年月日 | 1920/04/25 |
掲載回数 | 31 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 立教大学 |
学歴その他 | |
入社 | ノンプロ 八幡製鉄 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 別府星野組、毎日、永田オーナー「バカ ヤロー」発言、阪急、近鉄 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 海草中・嶋、砂押監督、荒巻淳、別当薫、 榎本喜八、トリオ(福本、加藤、山田) |
備考 | スペンサーメモ |
1920年4月25日 – 2011年11月25日)は、和歌山県生まれ。プロ野球選手(内野手)、コーチ・監督、野球解説者、野球評論家。中国で終戦を迎え、復員後は東洋金属、八幡製鐵、全京都を経て、立教の後輩の永利勇吉の誘いで星野組に移籍。星野組時代の1949年には監督・一塁手・3番打者として第20回都市対抗野球大会に出場し、チームを優勝に導いた。
西本は毎日新聞との交渉役となり、ここでも統率力を発揮して「選手全員の受け入れ」を毎日側に要請、最終的に西本を含む7人が毎日オリオンズに入団する1950年、毎日の選手として公式戦に出場する。プロ入り時には既に30歳であり、選手としてのピークは過ぎていたが、1番(または2番)・一塁手の定位置を確保し、毎日のパ・リーグ優勝と日本一(日本シリーズ優勝)に貢献した。
1.立教大学時代
試合では監督兼一塁手兼三番打者として、夢中で戦った。ベンチからだけではなく、ウエーティングサークル、走者に出た塁上からと、私は自分の居る場所から、サインを送った。甲子園へ出たような有名選手は、ほとんどいなかった。杉浦、長嶋、本屋敷時代の監督を務めた砂押邦信が、投手の一員として頑張っていた。
2.二リーグ分裂
昭和25年、プロ野球の二リーグ分裂が決まった当初、阪神はパ・リーグに加わるはずだった。ところが、巨人に説得されて、寝返ったそうだ。毎日はその報復手段として阪神の主力選手を引き抜いた。投手若林忠志、捕手土井垣武、内野手本堂保次、大舘勲、外野手別当薫、呉昌征である。星野組の選手を中心として、ノンプロの有力選手で固めるという毎日のチーム作りの方針は、大きく転換した。
3.永田雅一オーナーの「バカ野郎」発言
日本シリーズで大洋を相手に2対3とリードを許していた8回裏。大毎は一死満塁、打者は5番谷本という絶好機を掴んだ。大洋はエース秋山登にスイッチした。ひとまずタイに持ち込めば、追う側の強みを発揮できるとふんで、スクイズのサインを出した。しかしこれを失敗し、2併殺となった。
試合後、リッカーの平木社長の「ゲン直し一杯」のお誘いで参加したところ、どこでどう探したのか、永田オーナーからの電話があった。
「ミサイルと言われている打線なのに、どうしてスクイズをやるのだ」と言われた。私も40歳で血気盛んだった。「私の方が大毎の状態をよく知っています」と言い返した。すると「バカ野郎」である。「バカ野郎だけは取り消してください。その言葉は撤回してください」と言うと、オーナーはガチャンと電話を切った。
4.野球を変えた「スペンサーメモ」
阪急の監督時代、スペンサーは大リーガーから入ってきた。彼は気性が激しく、団体の秩序からはみ出す男だった。先発メンバーから外すと「帰国する」とわめくし、遅刻の罰金を取ると、金を叩きつけて「釣りはチップだ。取っておけ」と暴言を吐いた。
しかし、プロ意識に徹し、戦う集団の一員としては頼りになる選手だった。打てなかった時は、非常に悔しがった。そして、次の打席が回ってくるまで、相手投手の投球内容を克明にメモした。「スペンサーメモ」として有名になった。このメモは、相手投手の球の握りや、小さなクセで、球種を見抜く内容であった。怪童と呼ばれた東映の尾崎行雄投手を、このメモでカモにし、彼は「尾崎大好き」と言った。
当初スペンサーメモを、彼は誰にも教えなかったが、初優勝が近付くと教えるようになった。これをきっかけに、ナインも相手クセを見抜く勉強をするようになった。
1955年撮影 | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 和歌山県和歌山市 |
生年月日 | 1920年4月25日 |
没年月日 | 2011年11月25日(91歳没) |
身長 体重 | 171 cm 64 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 左投左打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1950年 |
初出場 | 1950年 |
最終出場 | 1955年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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監督・コーチ歴 | |
野球殿堂(日本) | |
選出年 | 1988年 |
選出方法 | 競技者表彰 |
この表について |
西本 幸雄(にしもと ゆきお、1920年4月25日 - 2011年11月25日)は、和歌山県和歌山市出身のプロ野球選手(内野手)、コーチ・監督、解説者・評論家。
選手としては、社会人野球の星野組時代に選手兼任監督として都市対抗野球大会で優勝[1]、その戦力を見込まれて他のメンバーとともに入団した毎日オリオンズでは最初の日本選手権シリーズにも出場して優勝を経験した。現役引退後、40歳でオリオンズ(当時は「大毎オリオンズ」)監督に就任して初年度にリーグ優勝を達成、以後61歳で退任するまで、3球団で合計8回のリーグ優勝を成し遂げた[1]。阪急ブレーブスと近鉄バファローズでは弱小チームを鍛えて強豪に育てあげ[2]、その手腕が高く評価されて野球殿堂の表彰者となった[1]。一方監督として出場した日本選手権シリーズでは一度も優勝を経験することがなく、「悲運の名将」とも呼ばれる[2]。