掲載時肩書 | 藤原歌劇団主宰 |
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掲載期間 | 1957/06/11〜1957/06/28 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1890/12/05 |
掲載回数 | 18 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | 早実・退 |
入社 | 郵便配達 |
配偶者 | 安藤文子、藤原あき子 |
主な仕事 | 父・英国人、丁稚奉公、関西農報社、新国劇、金龍館、伊オペラ勉強、ラジオ、オペラ、藤原歌劇団 |
恩師・恩人 | 吉田茂 |
人脈 | 岡田源三郎、沢田正二郎、田谷力三、藤浦洸、三浦環、原田譲治、大倉喜七郎、山野正太郎、三井高公、徳川無声、砂原美智子 |
備考 | 母・芸者 |
1898年(明治31年)12月5日 – 1976年(昭和51年)3月22日)は大阪府生まれ。男性オペラ歌手、声楽家(テノール)。戦前から戦後にかけて活躍した世界的オペラ歌手であり、藤原歌劇団の創設者。父親がスコットランド人で母親が日本人。日本にオペラ文化を根付かせた苦労物語だった。
1.吉田茂さんのご厚意
大正9年(1920)3月、父の遺産でイタリア留学が可能となったが、当時は第一次世界欧州大戦直後で、スカラ座はもちろん、オペラハウスはみな閉まっていて、場末で小じんまりしたオペラをやっているに過ぎなかった。イタリアでオペラが見られないならフランスかドイツに行けばいいだろうと思い、ベルリン、パリと散財しているうちに金を使い果たした。「ロンドンに来れば、歌いながら勉強もできるし金も稼げるから」とテナーの松山芳野里が誘ってくれたので、ロンドンに渡った。
その紹介で食事とお茶の時間にバイオリンやピアノや声楽をやり、細々ながら借金も返し、食べていく収入が得られるようになり、日本人クラブへも入ることができた。そのクラブで一条実基男爵、蜂須賀正氏、薩摩次郎八氏などと知り合いになった。そのとき一条男爵が当時、一等書記官だった吉田茂氏を紹介してくれた。吉田夫妻は「それじゃ、ロンドンの新聞記者、批評家連中に紹介の労をとってやろう」といって、ホテル・ラングハムで、私のためにティー・パーティを開いてくれた。そして大使館関係の名士にも紹介してくれた。私は日本の「荒城の月」や「寄宿舎の古つるべ」「箱根八里」などをヨーロッパで初めて歌った。これは非常に評判がよく、翌日のほとんどの新聞に掲載された。吉田さんには、この時を契機に奉天の総領事、外務次官、イタリア大使、最後の外交官生活の英国大使のときと、行く先々でお世話になった。
2.NYで蝶々夫人を上演
昭和27年(1952)、戦後初めて私はNHKから米国へ派遣された。そのとき、日本のオーケストラの育ての親といわれたローゼンストックがニューヨーク市立歌劇場の総指揮者をしていたが、彼に次の提案をした。
「私の長年の夢であるお蝶夫人を米国でやりたい。これはすでに4,50年もやっているものだが、米国ではいまだに、畳の上を靴で歩いたり、弁髪の日本人が出てくるひどいものだ。もう少し日本を見直してもらいたい。私の考えでは、日本人役の歌うたいは全部、日本から連れてきてやりたいのだが・・・」と。そうしたら「僕にとって日本は第二の故郷だ。君が日本から少なくとも20人の合唱団と主役を連れてきてくれば、ニューヨークの檜舞台を君に提供しよう」ということだった。
私は「これこそ日本のオペラが海外に進出するまたとないチャンスだ」と考え、急いで東京に引き返し、財界人に話を持ちかけた。大阪商船の伊藤武雄社長や大映の永田雅一社長も私の熱意にほだされて支援を得ることができた。しかし、いろいろトラブルが続出したものの何とか開催することができた。
初めて見る日本人の「お蝶夫人」は喝さいを博し、日米協会会長のロックフェラー三世夫妻が、われわれのためにホテルで大レセプションを開いてくれた。この時は、NY市長、メトロポリタン総支配人はじめ、各界の名士が約千人も集まってくれた。しかし、赤字の公演となった。
3.オペラ団で大切なもの
何か月ぶりで研究所に帰国した。留守中、電気、ガス、電話が何回も止められ、たった2台のピアノも1台を売り払ってやりくりしていた始末だった。こんな状態だったので、一銭も給料を払わなかったので、合唱団はチリジリになっていると思っていたが、私が帰るまで全員が待ってくれていた。
オペラ団は合唱団が一番大切だ。合唱団さえちゃんとしておればオペラ団は安泰だ。というのは「カルメン」や「椿姫」や「リゴレット」をやる人は一人一人の話し合いである程度はどうにでもなるが、合唱団はそうはいかない。一朝一夕にできるものではないからである。これが全員残ってくれたので、私には何よりの励みであった。