掲載時肩書 | ぐるなび創業者 |
---|---|
掲載期間 | 2022/09/01〜2022/09/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1940/02/03 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 82 歳 |
最終学歴 | 東京工業大学 |
学歴その他 | ドイツ留学 |
入社 | 三菱金属鉱業(現三菱マテリアル) |
配偶者 | 裕子:英文学博士 |
主な仕事 | 日本交通文化協会、米国視察、鉄道広告(パブリックアート)、NKBエージェンシー設立(親会社を合併)、ぐるなび、楽天提携、ペア碁、1%をアートに |
恩師・恩人 | 清家清、吉松喬、荒木茂久二、永井道雄 |
人脈 | 安藤楢六、田中勇、山本丘人、平山郁夫、久保征一郎、三木谷浩史、 |
備考 | 父(鉄道人脈多+五島昇)、パブリックアート全国550余、 |
氏の業種は鉄道広告の代理店・会長とすれば、電通の成田豊氏や博報堂の近藤道生氏に続いて3人目となりますが、ぐるなび創業者としてみると、情報通信系に入り、鈴木幸一氏(IIJ)や小野寺正(KDDI)、東哲郎(東京エレクトロン)に次いで4番目となります。
1.父の死と事業継承
1975年12月20日、父は交通事故にあい即死だった。病院に駆け付けると安らかな表情で、既に冷たくなっていた。72歳だった。12月26日、東京・信濃町の千日谷会堂で日本交通文化協会、交通文化事業による合同葬儀が、数日後に業界の年末恒例の会合が開かれ、私は父の顔つなぎに努めた。取り仕切ってくれたのが日本交通文化協会の会長で、日本食堂(JR東日本フーズの前身)社長の吉松喬さんと、帝都高速度交通営団(現東京メトロ)総裁の荒木茂久二さんだった。
さて誰が文化事業会社を引き継ぐか。父と親交のあった小田急電鉄の安藤楢六会長、京浜急行電鉄の片桐典徳社長、東急グループの大番頭だった東亜国内航空の田中勇社長からは継ぐように言われた。いろいろ曲折はあったが、社長に片桐さん、会長に安藤さん、副社長に田中さん、と企業規模に似つかわしくない豪華メンバーで、私は代表取締役専務、鉄道文化の向上発展が目的の公益財団法人日本交通文化協会は私が専務理事に昇格した。
2.鉄道広告
父から継いだ交通文化事業は1948年の創業だ。駅構内の看板などの駅広告を手掛けていた。当時、関東圏の駅の数はざっと1000、鉄道の乗降客は1日に延べ4500万人。それだけの人々がほとんど毎日、同じ空間を利用するのだから、広告を打つのにこんなに魅力的な場所はない。
具体的にどんな鉄道広告が求められているのか。私は専門家の知恵を借りることにした。プランナー、デザイナーなど精鋭4人に、1年間かけて鉄道広告に関するリポートをまとめるよう依頼した。彼らの出した答えが、モジュール(規格)化、ネットワーク化、大衆化だった。当時の駅の看板は大きさや形状がまちまちで雑然とし、企業が新商品を全国に売り出すときなどに使うには見栄えも効率も良くなかった。規格化された大型サイズの広告掲示用のボードを各駅に設け、それをネットワーク化して広告を打つことで十分な販促効果が得られるという結論は、私の考えと合致し、その後の会社の指針となっていく。
その第1号が1977年の新宿駅で、一基百数十万円。すべて自社負担で16基(4ホーム各4基)取り付け、業界の有力者の協力を得て営業をトータルで任せてもらった。三越、伊勢丹、丸井、ルミネなどの大型商業施設も催事の案内広告を機動的に掲出できるようになり、よろこんでくれた。
3.芸術と経営(パブリックアート)
京都駅の壁画に続き、翌年の1978年には東京・池袋のサンシャインシティに片岡球子先生の原画による陶板レリーフ「江戸の四季」、仙台駅コンコースには近岡善次郎先生の原画によるステンドグラス「杜の讃歌」が完成する。パブリックアートの設置ペースは年々、加速していった。
ただいくら文化的意義を強調しても先立つものなければ話は進まない。基本的には設置する地域の有力者や企業にご協力を頂くが、私はパブリックアートの意義を説明し、共感頂いた方々だけから協賛金を頂く方針を貫いた。平山郁夫先生の原画によるステンドグラス「昭和六十年春 ふる里・日本の華」を東京・上野駅に設置した時には、松下電器産業の山下俊彦社長にご協力をいただいた。一流の経営者、企業人ほど文化・芸術に理解が深いということだ。実際、多くのパブリックアートを世に送り出せたのも「文化と芸術のために経営する」という気持ちを私が抱くことができたからだった。
4.ぐるなび誕生
これの誕生は、インターネットに出会ってから1年後のことだ。1995年、10年間をかけて挑んだ公衆回線による新しいメディアへの挑戦を終わりにした。その時55歳と6か月、「インターネットが商用化されるらしい」と、私の耳に入ってきたのはそんな時だった。すぐにシステム担当に確かめるよう指示。実際にインターネットの接続を見てきた担当者から「評判通りの凄い技術です」。報告を受けながら、「情報系に産業革命が始まる」と、インターネットの意味を見破ったような興奮を覚えた。
情報は常に更新し続けなければならない。インターネット利用のメリットとして、私が注目したのは、そのリアルタイム性と情報のコストが2桁以上も下がることである。では、インターネットを活用してどんなビジネスが可能か。外食はどうだろう。日本の食文化の品質は高い、日本の料理人は世界一の腕前と思っていた。
さっそく広告を出している飲食店の数を調べさせた。すると「東京都内でわずか2500件」という結果。都内に10万店もあるというのにこの数字だ。これが決め手になった。当時の外食市場の規模は約25兆円の巨大マーケットだったが、外食店舗の多くが、日常的に使える情報発信の手段を持たず、立地に頼るしかない状態だ。私は「インターネットを利活用してメディアのない外食にメディアを生み出す」ことを決意した。ここまでわずか1日だった。
「グルメナビゲーター、グルメ、ナビ・・・ぐるなびでいこう」。悩むことなく決まり、96年6月、わずか1年の準備期間でサービスを開始した。
5.貢献心は本能
36歳の時にがんと疑われる難病にかかったとき、私は自分の内にある使命感を再確認した。湧いたのは病に対する恐怖でなく、「残された時間で妻子や社員のために何ができるか」「自分に何かを役立たせたい」という感情だった。その後、この使命感は人間が共通に持つものではないかと考え、哲学の道にいる人たちと議論を重ねた。辿り着いたのが「貢献心は人間の本能」という哲理。2001年、著作「貢献する気持ち」を紀伊国屋書店から上梓した。
人間は他者のために行う行動を「美徳」と考えがちだが、私は持って生まれた「本能」と考えた。ビル・ゲイツが財団を作って巨額の寄付をするのも、震災復興で多くのボランティアが活動するのも、すべて「他者に尽くしたい」という本能に根差すもの。助け合うことでしか人類が存続できなかったという歴史的事実もある。
この本を何度も読み返し、会いに来てくださったのがジオ・サーチ(東京)創業者の冨田洋さんだった。冨田さんは会社とカンボジアで地雷除去の後方支援ボランティア活動をしていたが、過酷な環境での危険な活動で病床に伏すこととなり、そこでこの本と出合った。私と話して「かわいそうだから助ける」のではなく、「自分の得意技生かし、役に立ちたいという本能に基づく行動」だからこそ、ワクワクドキドキできると気付いたという。それからは「貢献心は本能」に賛同する多くの企業・団体・個人の協力のもと地雷除去チームを立ち上げ、NGO活動を再開した。
6.今も感謝の人・稲井好広常務
東京工業大学を卒業後、務めた三菱金属鉱業(現三菱マテリアル)を2年で辞めることに、私の知り合いは異口同音に「お前はバカか」と断じた。父親もやって来て「お前は不見識だ。辞めるべきでない」となじった。私が「じゃあ、戻ろうか」と応えた。激昂した父親は「一度辞表を出した人間を戻すわけがない」と怒鳴った。私は「いや、戻れると思うよ」と冷静に言った。
数日前、目をかけてくれていた担当の稲井好広常務に呼ばれた。自分の強い意志で事業家を目指して辞めることなど説明すると、「お前のような人間は生ぬるいこの会社では我慢できないだろうな」と理解を示し、「何をするのだ」と聞かれた。辞めることに精一杯で、深く考えていなかった私は戸惑った。見抜いた常務は「3年以内なら、俺の目の黒いうちは無傷で戻してやる」と言ってくれたのだ。稲井常務はその後、社長、会長を長く務め、退職後もお付き合いをさせていただいた。立派な方で今もとても感謝している。