成田豊 なりた ゆたか

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掲載時肩書電通最高顧問
掲載期間2008/08/01〜2008/08/31
出身地韓国
生年月日1929/09/19
掲載回数31 回
執筆時年齢79 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他海軍兵学校、佐賀高校
入社電通
配偶者学生で年上娘と同棲
主な仕事地方部、太平洋大学、東京五輪、バチカン展、パウロ法王、ロス五輪、世界サッカー、長野五輪、映画「もののけ姫」等出資、海外進出
恩師・恩人吉田秀雄、成毛韶夫
人脈梶山季之(ソウル)今井敬・深代惇郎(海兵)大森実、徳間康快、浅利慶太、藤田田、水島広雄、ユベロス、新井満
備考中国で広告講座
論評

1929年9月19日 – 2011年11月20日)は、日本の実業家。1993年から長年にわたり電通のトップに君臨した。電通の新聞雑誌局長や営業総務担当取締役などを経て、1993年に社長に就任。2001年の株式上場や汐留新本社移転などを指揮した。大手広告代理店・電通グループの会長、ならびに電通の最高顧問を務めた。2010年6月より電通名誉相談役。社団法人日本広告業協会の会長も務め、名実共に日本広告界のトップである。この他にTBSの役員なども務めていた。

1.広告会社の企業地位
就職試験の時期を迎えた。成績が振るわないので公務員や新聞記者、外交官はきっぱり諦めたものの、せめて花形企業に入りたい。東大野球部OBの計らいで三井船舶が私を採ってくれる話があったが、身体検査のレントゲンで結核の既往症があるとされ予想外の不採用になった。鉱山会社や鉄道も落ちた。野村証券の補欠募集にも応募したが、同じようにダメだった。
 そんな時、電通に勤めていたやはり東大野球部OBの鈴木冨美男さんからの誘いで正式名の日本電報通信社に入ることができた。私が電通に入ったと聞いた知人らが、「成田もバカだな、東大法科を出て広告屋か」と笑っていると聞いた。広告の地位はそんなものだった。

2.広告外交員の仕事
入社当時、電通マンには3つのお得意さんがあると言われた。媒体、広告主、そして「外交さん」、つまり外交員とは完全歩合制、一匹狼のベテランセールスマンのこと。若い社員には彼らの事務補助も回ってきた。
 外回りに出れば、企業の受付に「押し売りと広告取りは裏口へ」「広告の暴力営業を見たら110番」などの貼紙をよく見かけた。惨めな思いをした。あっちで頭を下げ、こっちでも頭を下げ。「こんな姿、女房子供には見せられんぞ」。同期の仲間と嘆いた。
 気の重かった仕事のトップが社会面の下の死亡広告、通称「黒枠」だった。通夜の席などにお邪魔し、告別式のお知らせ広告の注文をいただくのだ。閲読率の高い社会面への掲載なので単価が高い。しかも名士の黒枠は新聞の格を示すため、どの社も欲しがる。他の広告会社も狙っているからだ。
 重病人の寝室の床下に潜り込み、亡くなった気配を察知したら玄関に一番乗り。昔はそんな強者もいたとの伝説もまことしやかに語られたものだ。忙しい中、遺族や会社の人も助かるのだと理解できると、私も通夜の席で自然に相談を切りだせるようになった。

3.吉田秀雄社長の経営
電通では上の人間ほど早く出社し会議を開く。私が入社した時の社長で「仕事は自ら創るべきで、与えられるべきでない」で始まる「鬼10則」の考案者として知られる吉田秀雄の方針だった。言葉通り毎朝8時、役員フロアでは幹部会が開かれた。
 吉田は新卒だけでなく、元満鉄社員や陸海軍人などを多く採用した。優秀だが終戦で能力を発揮する場を失った人たちだ。戦後の混乱は、平時なら広告業界になど来なかったであろう才能を集める好機だと吉田は考えた。ただし彼らは広告には素人なので、自分が社長兼講師となり実務と理論を叩き込んだ。早朝会議は勉強の場だった。
 吉田は戦後、社長に就任するとメディア、広告主の双方に働きかけ、発行部数を客観的に認定する組織や広告内容の倫理規定などを矢継ぎ早に作っていく。カネのやりとりが不透明になりがちな歩合外交制度も昭和30年〈1955〉代半ばまでに廃止した。彼の提唱した広告取引の近代化、「広告主のための代理店」への脱皮、国際化などが功績として残る。

4.博覧会ビジネス
電通は民放テレビのゴールデンタイムで大きなシエアを持つ。4代目社長吉田秀雄の遺産だ。テレビCMは1回当たると反響が大きい。1967年の森永製菓「大きいことはいいことだ」、70年の富士ゼロックス「モーレツからビューティフルへ」などテレビCMは時代の気分も作った。73年に電通が広告売上高世界一になった原動力もテレビCM。2年後には国内の広告シエアでテレビが新聞を抜く。
 70年の大阪万博で電通は広報宣伝に加え、いくつかのパビリオンに企画協力をした。私個人が深くかかわるのは「科学万博―つくば‘85」からだ。博覧会ビジネスは企画と営業で成り立つ。耳目を引く企画を提案し、採用されたら現場を運営するのが企画部門。企業などから運営や広告を受注するのが営業部門。私は常務として営業の総責任者であると同時に、科学万博室担当にも就任し博覧会全体に目配りする立場になった。パビリオン運営では利益は余り出ない。普段の広告営業との相乗効果でトントンだった。

5.社長になった私の主張
専務なって4年がたった1993年の春、木暮剛平社長に呼ばれ「次の社長をやってくれないか」と言われた。バブル崩壊で92年の日本の総広告費は27年ぶりに前年割れ。翌年には統計を取り始めて以来、初の2年連続マイナスになり、電通の決算も減収減益になった。社長就任の年には非自民連立の細川護熙政権が発足するなど政治状況も混とんとしていた。
 企業は交際費、交通費、広告費の3Kを削減していく。社長に就任した私は方々で、不況期こそ「新3K」、すなわち研究開発、教育研修、広告に資金を投じることが回復期の成長に差をつけるとデータを基に説いて回った。

なりた ゆたか
成田 豊
生誕 1929年9月19日
忠清南道天安郡
死没 (2011-11-20) 2011年11月20日(82歳没)
死因 肺炎
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京大学法学部
職業 実業家
活動期間 1953 - 2011
肩書き 電通名誉相談役
任期 電通社長1993 - 2002
電通会長2002 - 2007
前任者 木暮剛平
後任者 俣木盾夫
取締役会 電通
宗教 キリスト教カトリック教会
配偶者
子供 成田哲(長男)
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成田 豊(なりた ゆたか、1929年昭和4年)9月19日 - 2011年平成23年)11月20日)は、日本の実業家。大手広告代理店電通グループの会長、ならびに電通の最高顧問を務めた。2010年6月より電通名誉相談役。1993年から長年にわたり電通のトップに君臨した。位階従三位

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