掲載時肩書 | 作曲家 |
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掲載期間 | 2023/05/01〜2023/05/31 |
出身地 | 茨城県 |
生年月日 | 1943/09/15 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 79 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 都立新宿高校 |
入社 | NHK音楽番組 |
配偶者 | 芸大生バイオリニスト |
主な仕事 | ピアノ、読書、絵画、管弦楽団、演劇部、交響曲11、ラジオドラマ多数、大河ドラマ5,管弦楽曲73,オペラ30 |
恩師・恩人 | 矢代秋雄、池内友次郎、三善晃、渡邉暁雄、 |
人脈 | 松村禎三、立花隆、佐藤功太郎、林光、武満徹、鷲見康郎、杉村春子、仲代達也、森繁久彌、今村昌平、黒澤明、篠田正浩、小田島雄志 |
備考 | クリスチャン、父の従妹・香川京子 |
作曲家でこの「履歴書」に登場したのは、山田耕筰、古賀政男、服部良一、吉田正、船村徹、遠藤実、團伊玖磨、小椋佳、服部克久、村井邦彦の諸氏に次いで氏は11番目である。しかし、いままでの作曲家とは随分イメージが違っていた。落語、読書、詩歌、演劇、映画、オペラなどに首を突っ込み、異業種の人たちとの交流からユニークな音楽を創り出していたからです。私の興味深かった箇所は次の通り。
1.小学校浪人
病弱で小学校就学が1年遅れた僕は、デタラメにピアノを弾くとともに、むさぼるように本を読む子どもであった。北原白秋や島崎藤村の詩集は、片端から作曲選びの素材になった。わかりもしないのに、ハードカヴァーの堀内逍遥訳シェイクスピアやゲーテを読んだ。F・ラブレーの「ガルガンチュワ大年代記」が大好きだったのは、挿絵に惹かれたのだろう。日なが1日臥していても、本は読めたし、テレビはまだなかったが、ラジオが聞けた。体調が許せば、ピアノだ。小学校浪人の1年間は、けっこう充実していたのである。
2.三人の師
①三善晃先生:先生のレッスンは、通常考えられるそれとは大きく異なっていた。僕が書き、持参した楽譜をゆっくり、じっくり、時間をかけて読む。が、時々ページをめくり返して、読み直す。そこは、書いた僕が内心忸怩たる思いの個所なのだ。何も言わない。レッスンはそれで十分だった。
時折りは大学でなく、自宅レッスンということもあったが、うかがうと先生は「ちょっと待て」と厨房へ消える。得意の料理に腕を振るっているらしい。しばしあって目の前に「シャンピニオン・ア・ラ・何とか」が出てくる。ワインを添えて。「もう1品作るから、もう少し待っていて」。そして、料理談義つきで一緒に食べ、飲み、「じゃ、外へ行こう」。近くの居酒屋へ。しかし、イデア(理念)とメチエ(技法)を高い次元で合体させるのが作曲、という抽象的だが根源的なことを教えてくれた。
②矢代秋雄先生:先生も独特だった。フランスの学習法でエクリチュールと総称する和声楽やフーガのレッスンである。五線に書きこむ一つひとつの音を厳密に選び抜くことを教えられた。「あるフレーズを書いたら、しばらくそのまま放っておく。1週間くらい経って見直すと、直したくなる。これを繰り返す。やがて直さなくていい日が来る。そうしたら、先に進む」と、自身の方法を語った。だがそれでは、僕はやる気が失せてしまう。一気に進まなければダメなのだ。とはいえ、これは僕に自戒の念を起こさせるのに十分だった。
③池内友次郎先生:東京芸大の学内で先生に会ったある時、僕はオーストリアの大作曲家シェ-ンベルグのオペラ「モーゼとアロン」の分厚いスコアを抱えていた。1950年代に初演されて、まだ10年ほどしかたっていなかったころだ。
「見せなさい」と、先生。いきなり、無伴奏の混声合唱で始まる。「オペラは、このように始まるものではありません」と、先生は一言。保守的かもしれないが、音楽の成立には厳然たる「形」が必要不可欠、ということだ。その是非はともかく、自分が書く音楽と厳しく対峙しなければならない、ということをイヤというほど教えられた。
3.武満徹さん
1969年の夏だ。武満さんから突然の電話。「僕の家で手伝いをしてくれる?徹夜になるかも知れないけれど・・・」。翌70年の大阪万博の特殊スクリーン用の映画「太陽の狩人」(恩地日出夫監督)の音楽だ。武満さんが書くスケッチ(2~3段の五線に要約した音符だけを記したもの)を、何十段ものオーケストラ・スコアに書き写し、仕上げるのが僕の仕事である。猛烈に暑い日だった。武満さんが言う。「僕、冷房も扇風機も嫌いなんだ。ごめんね」。持った鉛筆が汗で滑る暑さ。ふと見ると、グランドピアノの下に電気ヒーターがつけてあった。
こんなアシスタントの仕事が、それからしばらく続いた。その間、録音にも付き合ったし、その帰りにはジャズバーや、ゴーゴーのダンスホールにもご一緒した(武満さんは踊るのだった)。仕事をしていて、次の曲がなかなか届かないな、と思っていると、隣の部屋から、武満さんが弾く「イエスタデイ」(ビートルズ)が聞こえてくる。急がなきゃならないのに、何をやっているんだ?と思うと「ハイ、次の曲」とスケッチの楽譜がやってくる。不思議な人だった。
4.私・作曲の名指揮者
①交響曲:東京芸大の恩師でもある指揮者・渡邉暁雄先生は、僕の交響曲第1、第2番の初演者である。さらにバレエ作品も指揮してくださった。僕はこれまで10曲の交響曲書いてきて、現在11番を作曲中だが、第3番は井上道義、4番外山雄三、5番大野和士、6番岩城宏之、7番秋山和慶、8番金聖響、9番下野竜也、10番尾高忠明氏という、これ以上望めない方々に初演してもらってきた。さらに、第11番は広上淳一氏の指揮が予定されている。
②オペラ:最初のオペラは1971年NHK委嘱による「死神」だが、それだけでなく初期のオーケストラ作品のほとんどを初演してくれた指揮者は若杉弘さんだった。後のオペラは小林研一郎、沼尻竜典氏や若手の田中祐子、松井慶太、牧村邦彦らが素晴らしい演奏を繰り広げてくれた。
③管弦楽曲:山田一雄先生や前既の沼尻氏、同級だった佐藤功太郎君らに多くをお世話になった。
④合唱:この神髄を教えてくれた指揮者たちも忘れられない。田中信昭、関屋晋、栗山文昭、松原千振氏らである。
6.黒澤明監督
黒澤監督とは、4本の仕事をした。1978年「影武者」の音楽依頼が突然舞い込む。僕は35歳だ。音楽打合せの際に見るラッシュフィルムには、既製のクラシック曲が既につけられている。これが黒澤監督のやり方で、「参考だから気にしなくていい」というのだが、先輩作曲家たちはこれが悩みの種だったらしい。「影武者」にはグリーク「ペール・ギュント」などが使われていた。
そこで私は、メロディは似ていないが金管楽器を軸に作曲した。主となるメロディは僕がピアノで弾き、聴いてもらう。15種類作った。まず、これはダメと自分でも思うものから始める。果して「ダメ」と言われる。これはいいんじゃないかと思うものは8番目ぐらいだ。その次にいいかな、は14番目。という具合に弾いて、結果は僕の思った通りになった。
合戦シーンの風の音の選び方まで僕に問いかけた黒澤監督の持論は、音楽監督は作曲だけではなく、映画の中の全ての「音」に責任を持つ、ということだった。
7.私の作曲持論
作曲とは五線紙に音符を置いていくことではない、と僕はかねて考えている。頭の裡(うち)で作曲をして、それを「写譜」するのが、書く行為なのだ。換言すれば、音を聴くことが作曲作業だ。現代、ことに若い作曲家は、PCで考え、PCで書くことが通例になっている。僕も試みたことがあるが、ダメだった。音が聴こえない。頭に浮かばない。PCによる作譜は浄書には適しているが、作曲はやはり手書きでないと。というわけで、僕は今も五線紙に手書きで音符を書いている。
池辺 晋一郎 IKEBE Shin-ichiro | |
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文化功労者顕彰に際して 公表された肖像写真 | |
基本情報 | |
出生名 | 池邉 晋一郎 (いけべ しんいちろう) |
生誕 | 1943年9月15日(81歳) 茨城県水戸市 |
学歴 | 東京芸術大学音楽学部卒業 東京芸術大学大学院 音楽研究科修了 |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 作曲家 |
活動期間 | 1960年代 - |
池辺 晋一郎(いけべ しんいちろう、1943年9月15日 - )は、日本の作曲家[1]。学位は芸術学修士(東京芸術大学・1971年)。一般社団法人全日本合唱連盟顧問、東京音楽大学名誉教授、文化功労者。本名:池邉 晋一郎(読み同じ)。
東京音楽大学音楽学部教授、東京音楽大学付属民族音楽研究所所長、横浜みなとみらいホール館長などを歴任した。