掲載時肩書 | 江崎グリコ社長 |
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掲載期間 | 1963/08/16〜1963/09/09 |
出身地 | 佐賀県蓮池 |
生年月日 | 1882/12/23 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | |
入社 | 薬種商自営 |
配偶者 | 見合20歳 |
主な仕事 | ぶどう酒量り売り、グリコーゲン(グリコ)、栄養菓子会社、オマケ商法、ネオン、自動販売機、東南アジア進出、母子健康協会 |
恩師・恩人 | 楢村佐代吉(寺子屋師) |
人脈 | 文無し会6人:松下幸之助、鳥井(サントリー)、中山(製鋼)、 常田(寿重工)、掘抜(帽子)、健康長寿の会(平均76歳:今村荒男教授) |
備考 | 父:村世話役、弟:清六の貢献 |
1882年〈明治15年〉12月23日 – 1980年〈昭和55年〉2月2日)は佐賀県生まれ。実業家。江崎グリコの創業者。現・社長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。佐賀の筑後川河口にある、戸ヶ里漁港で水揚げされた牡蠣(カキ)に含まれるグリコーゲンから「グリコーゲンの事業化」を思いつき、アメの中に牡蠣エキスからとったグリコーゲンを入れた試作品をつぎつぎと作るようになった。
1.グリコーゲンの健康食品化
牡蠣のエキスに大量のグリコーゲンが含まれているのを知り、これを事業化することが頭にこびりついた。丁度このころ、10歳になったばかりの長男の誠一がチフスに罹り医師もサジを投げるほどの衰弱だった。このとき、私は医師の許可を得て子供の生命を賭けた牡蠣エキスの試飲を誠一に行ったのである。この試飲を機に、息子の病状はメキメキと快方に向かい、食欲も出、体力も回復してきた。これで事業化を早めた。
グリコーゲンを治療に使うより、むしろ病気を防ぐための体力づくりに使う方がいいのではないか。これには、九州大の先生の次のアドバイスが大きな示唆となった。「われわれ医者は、病気を治すことばかり研究しているが、これは国民保健からいうと実は消極的なことで、予防こそ治療に勝る大きな意義があるんだよ。病気にかからぬ体をつくることが積極的で、より大切なんだ。しかも、世の中には病気になった人よりも、病気にかからぬように気をつけなくてはならない健康な人がはるかに多いんだからね」。
治療より予防!そうだ、嗜好品として売るのだ。菓子の中にグリコーゲンを入れるのだ、と考えついた。
2.グリコの商標マーク由来
大正10年(1921)、資本金6万円の栄養菓子会社はスタートした。グリコの製品名称、中身、包装の決まった後は、商標(マーク)とスローガンの決定が待っていた。ある日、見るともなしにお宮の馬場で、子供たちが走りっこをしている。先頭になった子が両手を挙げてゴールインする。その姿を見て、私は考えた。
「人間だれでも、健康でありたいと望んでいる。健康のためには体を鍛えなければならない。そうだ!スポーツこそ、健康への道だ。そして、子供の遊戯本能もまた、スポーツの中にはっきり現れているではないか。ゴールインに姿は、それらの象徴というべきではないか。グリコのマークとこれほどピッタリのものはない」と。
私は早速、ゴールイン姿のマークをこしらえた。それまでに、象、ペンギン、はと、花などのマークができていた。近くの小学校や佐賀や大阪の小学校でこれらをテストした。結果は、圧倒的にゴールイン姿だった。
3.二、二ンが5の効果(商売の相乗効果)
商売は誰でも一応は一生懸命にやっている。それで当たり前、いわば二・二ンが4である。大きな成功を収めるには、それだけでは足りない。考えて考え抜き、努力に努力を重ねて常識のカベを越え、誰もがやれないようなことをやってのけなければならない。二、二ンが5にも6にもしなければならないのである。私の場合、
(1)「オマケ」である。単に景品程度としていたオマケを、一歩進めて商品の性格の中まで溶け込ませ、それによってグリコの強い特色をつくろうと考えた。
(2)「遊び食い」である。子供たちは食べながら遊び、遊びながら食べる。どちらか一方だけでは満足しない。彼らはいつもオヤツとオモチャの世界に住んでいる。食べることと遊ぶこと‥二大天職を満足させる。
(3)健康を増進させ、オモチャを通じて子供の知識と情操を向上させる。これこそ事業即奉仕の精神に繋がるものではあるまいか。そうだ!オヤツに加えてオモチャを提供しよう、となった。
(4)景品がどんなに興味をひいても、まじめな家庭で喜ばれない非教育的なものは排除し、ガラス製品、風船類、ブリキなど口に入れて危険なものはやめた。塗料や鉛金属など衛生的に害のあるものも、一切採用しなかった。
そして昭和4年(1929)から、オマケとグリコを別々の箱に収め、それを一つにくっ付けるようにした。これでオマケは文字どおりオマケになり、商品価値も高まったのである。
えざき りいち 江崎 利一 | |
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江崎 利一(えざき りいち) | |
生誕 | 1882年12月23日 日本 佐賀県神埼郡蓮池村 (現在の佐賀市蓮池町) |
死没 | 1980年2月2日(97歳没) 日本 |
住居 | 日本 佐賀県神埼郡蓮池村 日本 大阪府 |
国籍 | 日本 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1890年 - 1980年 |
時代 | 明治時代後期 - 昭和時代後期 |
団体 | 江崎グリコ |
活動拠点 | 日本 |
肩書き | 江崎グリコの創業者 |
配偶者 | 先妻:江崎 イマ(1906年 - 1919年死別) 後妻:江崎 エキ |
子供 | 長男:江崎 誠一 |
親 | 父:江崎 清七 母:江崎 タツ |
親戚 | 秋山虎六(海軍少将) |
家族 | 姉:タネ、タメ 弟:清六 妹:タヨ、タミ 孫:勝久、正道 |
江崎 利一(えざき りいち、1882年〈明治15年〉12月23日 - 1980年〈昭和55年〉2月2日)は日本の実業家。江崎グリコの創業者。現・会長の江崎勝久と、その弟の江崎正道の祖父。