掲載時肩書 | 三菱マテリアル相談役 |
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掲載期間 | 1998/03/01〜1998/03/31 |
出身地 | 広島県 |
生年月日 | 1923/03/17 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 75 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 二高 |
入社 | 三菱鉱業 |
配偶者 | 先輩妹(小学1年下)重雄叔父仲介 |
主な仕事 | 石炭と金属分離、米留学、直島精錬所、連続精銅法、原子力燃料、大阪アメニティパーク、三菱マティリアル(セメント含む) |
恩師・恩人 | 大槻文平、羽仁路之、 |
人脈 | 父:護、叔父:重雄、宮内義彦、石原俊、諸井虔、牛尾治朗、江副浩正、山岸章、斎藤栄四郎 |
備考 | 代々先祖:住職、 |
1923年3月17日 – 2008年5月12日)は広島県生まれ。実業家。1982年に三菱金属の社長に就任。無公害などの特徴を持つ最後の銅精錬技術「三菱連続製銅法」の商業化を手がけた。また社長在任中、旧本社ビル建て替え・再開発(大手町ファーストスクエア)を主導し、大阪アメニティパークを建設した。1990年に三菱金属と三菱鉱業セメントが合併し新たに三菱マテリアルが発足すると初代会長に就任した。1995年長寿科学振興財団会長。
1.連続製銅法の開発
1967年10月に瀬戸内・直島から三菱金属の冶金部に戻った。仕事として一貫して進めていたのは連続製銅法の開発である。銅精錬の基本はソロモン王の時代から変わっていない。鉄鉱石を高温で溶かし、空気を吹き付け、金属銅を得る。鉄やアルミに比べて実に簡単だ。「それなら、片方から銅精鉱を入れれば反対側から粗銅が出てくる連続的なプロセスができないか」と考えた。
従来のバッチ処理では、巨大な反射炉で溶かしてから転炉に移して粗銅を得るといった手間がかかる。これに比べて、連続化は多くの利点が考えられた。省力化、省エネルギー化、単純でコンパクトな設備設計、容易なプロセス制御、排ガス利用、公害規制への対応などである。
チェコ、カナダ、オーストラリアでも連続製銅法を研究していたが、成功したのは私たちだけだった。この連続製銅法では、役割の違う3つの小さな炉を、高さを変えて設置する。上から順にS炉、CL炉、C炉。この間を密閉式の樋(とい)で繋ぐ。銅精鉱はS炉で溶かされ、樋を流れてCL炉へ行き、銅の多いカワと銅の少ないカラミに分れる。カワはさらにC炉に流れ込み硫黄分のない粗銅(銅99・5%)になる。
熱力学の法則に従って物質が変化し、重力の法則によって溶けた銅が移動する。機械的に動く部分がないから故障も少ない。スマートなプロセスだ。
2.三菱金属と三菱鉱業セメントとの合併
三菱金属の社長に就任したのは1982年6月だった。90年12月に三菱鉱業セメントと合併するまで8年半、右肩上がりの良い時期に社長を務めた。幸運だったと思う。
1950年4月、集中排除法により、三菱鉱業の金属事業部門が大平鉱業として分離された。それが三菱金属鉱業となり、三菱金属となった。一方、石炭事業部門が残った三菱鉱業は73年、三菱セメント、豊国セメントとの3社合併で三菱鉱業セメントとなった。石炭はエネルギー革命により石油に市場を奪われ、国際競争力を失った国内炭鉱は縮小・閉山していった。三菱金属も国内の金属鉱山を閉め、身軽になった。
ある日、三菱鉱業セメントの小林久明会長が突然、私のところに来て、「合併しよう」と切り出された。先方もセメント以外の柱を必要としていたのだ。交渉は89年の秋から年末にかけて始まった。存続会社、合併比率、人事などが問題だった。お互い譲り合い、存続会社は三菱金属とし、合併比率は直近の株価で決めることになった。社長人事は年齢を考慮して、私が会長、藤村正哉さんが社長ということで合意に達した。
新社名は合併を発表してから募集した。三菱マック(三菱メタル&セラミック)、三菱総合素材などいろいろな案があったが、新しい感覚で意味も明快な三菱マテリアルに決めた。90年12月1日の誕生だった。
3.春闘は日経連に任せてください
「労働問題は素人」の私だが、日経連(日本経営者団体連合会)会長として初の春闘を迎えるにあたって、一つの問題意識があった。「高物価と高賃金による高コスト構造を改めない限り、産業の空洞化は進む。それは日本という国を滅ぼしかねない」。そこから、いわゆる「ベアゼロ論」が生まれた。日本の賃金は既に世界一の水準に達していた。労使が考えなければならないのは、賃上げでなく、物価を下げることだった。92年1月の日経連臨時総会では、労働問題研究会報告に基づき、「賃上げは定期昇給を基本に」と呼びかけた。それをマスコミが取り上げた。
私の発言が話題になった一因は、ソニーの盛田昭夫さんの「企業はもっと稼いで、高い賃金を払うべきだ」という意見がマスコミで評判になっていたことにある。またサントリーの佐治敬三さんが「大幅賃上げで景気浮揚を」と言い出すし、当時の宮澤喜一首相までが衆院予算委で、「賃上げ幅が昨年を大きく下回ることは予測していない」と答弁した。私はたまりかねて、予算委の翌日に首相を訪ね「春闘は日経連にお任せください」と申し上げた。
バブル崩壊、日経平均株価2万円割れを横目に、春闘は「かなり高めの水準」で終結した。その後も毎年、日経連会長として「ベアゼロ論」を唱え続けた。どちらが正しかったかは、その後の歴史が証明している。