掲載時肩書 | ヤナセ社長 |
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掲載期間 | 1984/12/07〜1984/12/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1916/06/28 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 慶應大学 |
学歴その他 | 慶應幼稚 |
入社 | 梁瀬自動車 |
配偶者 | 上司紹介娘 |
主な仕事 | 柳瀬自動車(父物産から独立)、タイプライター輸入、社長解任、ゴルフ、レストラン、ブティック、ヤナセ欧州・米に |
恩師・恩人 | 井上治一 |
人脈 | 父恩師・山本条太郎、砂田重民(ケンカ)、遠山直道、黒川光朝、牛尾治朗、長谷川町子、渥美健夫、石川六郎 |
備考 | 長女(稲山嘉寛3男嫁)、次女(鹿島昭一嫁) |
1916年〈大正5年〉6月28日 – 2008年〈平成20年〉3月13日)は東京生まれ。実業家。梁瀬自動車株式会社社長、株式会社ヤナセ社長、日本経営者団体連盟常任理事などを歴任した。アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に日本人としては本田宗一郎や豊田英二らに続く5人目となる米国自動車殿堂入りを果たした。『自動車を斬る』(実業の日本社)など著書多数。
1.父と相談(日産と豊田)者
父は日本自動車業界の草分けの一人として、国産メーカーの創立期に活躍された人たちから、相談や頼みごとを受けていた。特に印象に残っているのは、日産コンツェルンの創始者鮎川義介さん、トヨタの豊田喜一郎さん、豊田利三郎さんらである。
昭和7年(1932)頃、鮎川義介さんが父の家によく相談に来られた。鮎川さんは「戸畑鋳物の株式公開で得たプレミアム150万円を投じて自動車製造を始めた。ついては是非君も協力して造ってもらえないか。資材は私の戸畑の鋳物工場で余った古いスチール等があるので提供する」と父を懸命に口説いていた。
父は「製造は自分の仕事ではないから」と言って断り続けていたが、結局、乗用車の販売だけ引き受けることになり、トラックは日本自動車の石沢愛三氏が販売することになった。製造は鮎川さんが行うことになり、これがダットサンを製造する日産自動車となったのである。
同じころ、豊田喜一郎、利三郎さんも頻繁に出入りしていた。豊田自動織機のパテントを英国に売った際に得た150万円で自動車生産に乗り出したトヨタは、父に様々な相談をしてきた。戦時色が強まった昭和10年、陸軍の井手鉄蔵中将が「これからの日本は、自動車、戦車、航空機のエンジンなどは急いで生産しなければ国防上間に合わない。日本のメーカーが鋭意努力することも結構だが、先進国のアメリカの力を借りるのも一つの方法である」と発案、トヨタ・GM提携構想が急浮上した。
2.売り言葉に買い言葉で社長を引き受け
昭和19年〈1944〉7月にサイパンを失ってからは本土空襲が激しくなってきた。翌20年3月10日は東京空襲になったが、その1週間前、私は突然父に呼ばれた。父は思いつめた表情で語りかけてきた。
「日本の将来は望みがなく、会社の経営も困難になってきたので、思い切って閉鎖することも考えている。しかし、君が後を継いで、やっと行こうという気持ちがあるならば、ここで君に社長を譲りたい」と切り出した。「私は29歳と若いし、経営者としては不向きです」と断った。しかし、話し合いを続けているうちに「やはり会社は潰したくない。何とかやってくれないか。もし、この苦しい時に君が社長として会社を少しでも良くしたら、君を初代の社長として認めよう」とまで言い出した。売り言葉に買い言葉で経営を引受ける形になった。
昭和20年5月30日午後、柳瀬自動車工業(当時の社名)の株主総会が開かれた。株主総会と言っても、約20人の株主、役員が並び、お茶の葉もないので茶わんにただのお湯が注がれ、わびしくすすった。
3.ワンマン父の最後の言葉
昭和31年(1956)5月の初め、自宅で夜中に目を覚ました父が「すぐ次郎に会いたい」と言い出した。午前3時ごろだったが、三番町の父の家に急ぎ駆け付け、枕元に座った。食道がん末期の父は私の手を強く握り、「今までの君の親孝行に対していかに感謝しているか、素直にありがとうと言いたいと思って来てもらった」と切り出した。父に礼を言われたのも、手を握られたのも、生まれて初めて。私にとっては涙の出るほどうれしいことだった。
「二代目だからと言って、先代の創立した会社をただ守って行けばよいという気持ちは、即、後退を意味する。会社を潰しても構わない。そのくらいの気持ちで前に進むべきである。その結果、万一、しくじっても仕方がない。思った通り思う存分仕事をしてもらいたい。会社を立派にすることが本当の男の仕事だ。そこに喜びを見出していって欲しい」と。しゃべり終わるとよほど疲れたのか、いつの間にか眠っていた。
私は枕元を離れ、目黒の家に向かった。朝日が昇る中、私は「父とは随分対立してきた。バカ呼ばわりされ、悔しさで泣きたいこともあった。父を反面教師として経営の道を歩んできた。しかし、やはりありがたい父親だった」と感無量の気持ちで歩いていた。同年6月11日午前1時、父は78歳で亡くなった。