掲載時肩書 | 文楽人形遣い・重要無形文化財 |
---|---|
掲載期間 | 1967/02/08〜1967/03/06 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1900/11/20 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | 小学校 |
入社 | 9歳文五郎入門 |
配偶者 | 髪結い3歳上 |
主な仕事 | 足10年、左づかい10年、蓑助、主遣い、おどり、紋十郎、文楽労働組合、芸妓8人(2,400枚)錦絵、海外公演、 |
恩師・恩人 | 吉田文五郎 師匠 |
人脈 | ひばり、三橋美智也と共演、林長二郎、貝島太市、白井信太郎、高橋誠一郎、高松宮妃殿下 |
備考 | 女性関係告白 |
(明治33年(1900年)11月20日 – 昭和45年(1970年)8月21日)は、大阪府堺市生まれ。地方や小劇場、海外のカナダ、アメリカ、ヨーロッパまで公演に参加。『本朝廿四孝』の八重垣姫、『艶容女舞衣』のおその等、花の多い女方を得意とした。
1.人形遣いの修行
この修行は、ふつう足10年、左10年などといわれておりますが、足をつかいながらも、ときには左も勉強させてもらい、また一人づかいのツメ人形や、子役の主づかいもやらせてもらえるわけです。したがって、左づかいになれば、ちょっとしたワキ役の主づかいもやらされるので、そういうことも含めて、足10年、左10年というわけです。
私も小文時代からツメ人形の腰元や、子役の安徳天皇の主づかいも勉強しましたし、蓑助になってからは、師匠のお引き立てによりお園の左をつかわせてもらったり、「忠臣蔵」の力彌、「一の谷」の玉織姫といったワキ役の主づかいもさせていただき、どうやらこの世界に馴染んできました。
2.左づかいから主づかいへ
左づかいは、太夫の浄瑠璃をよく聞き、主づかいが動かす人形の後頭部を目当てに、その動き具合を勘ぐって、右手と呼吸を合わさなければなりません。足づかいは前かがみになり、舞台をはい回るようにしているので、人形の動きは全く分かりませんが、左をつかうと、主づかいや足づかいの動きを通じて、ある程度人形全般の動作が感じられ、主づかいの人形操作法も察しがつき、将来主づかいになるための予備知識が得られるわけです。事実、主づかいが休演したときは、左づかいが代役する場合もあり、そのためにも、普段からのその心づもりで勉強を怠ってはなりません。
こうして10年ばかり左を勤めて、見込みがあれば一本立ちの主づかいになれますが、この修行も並み大抵ではありません。どんな芸でも自分の努力は勿論のこと、先輩に手を取って教えられて成長していくものです。浄瑠璃、三味線、舞踊、お茶、お花、みんなその通りですが、人形ばかりは手をとって教えられるものではありません。西洋音楽には楽譜があり、三味線にも朱という譜が残っており、浄瑠璃は師匠の語り口を聞くことができます。しかし人形は3人でつかうややこしい分業ですからいつでも師匠につかって見せてもらうことができないのです。いうなれば“師匠あってなし”なのです。
だからどうしても師匠や三味線の間取りを覚え、先輩の人形を盗み見して,ヒマを見つけては楽屋の鏡の前で人形を自分一人でもって工夫するよりほかありません。
3.「紋十郎はハラがない」「花があって実がない」
紋十郎襲名以来、夕霧、阿古屋、正岡、朝顔、八重垣姫など数えきれないほどの大役を何度もやりましたが、おおむね、師匠や先輩方の型通りを踏襲したという程度にとどまっていたわけです。はじめは「花があって実がない」という意味がよくわかりませんでしたが、人の物まね程度ではそう言われるのも無理はない、ということに気づいてきました。先輩方の形を一通り覚えたら、こんどはそれぞれの人物に魂を入れて、人物になり切らなければならない、つまり自分の芸にはハラがないということに気がついたのです。
文五郎師匠が問わず語りのうちによくこんなことを言っておられたのを思い出しました。「八重垣姫」やて「政岡やてそや、”竹の間“と”まま炊き“で歯を食いしばってうっぷんをこらえてこそ、あとのクドキが生きるねん。なんでも芸はハラや、ええか」とこんこんと諭された。
そうだ、これは自分の努力が足りない。通りいっぺんの型だけで芝居はできない。型を飲み込んだらその役の人物を創り上げなければいけない、とだんだんに思うようになりました。