掲載時肩書 | 日本長期信用銀行会長 |
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掲載期間 | 1988/11/01〜1988/11/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1911/11/13 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 東京高校 |
入社 | 勧業銀行 |
配偶者 | 銀行支店長娘 |
主な仕事 | 二木会(村本周三)、長銀に転籍、第一 證券、日本リース、第一住宅金融、日韓経済協会、 |
恩師・恩人 | 牧野英一教授、浜口厳根、宮崎一雄 |
人脈 | 弘世現・麻生多賀吉・大谷光照・小坂善太郎(学習院)、日向方斉・朝比奈隆(東京高)、梶浦英夫、松本重雄、井上薫、安藤太郎、前川春雄 |
備考 | 父親:勧銀理事〈10年間) |
1911年11月13日 – 2006年1月27日)は東京生まれ。実業家。元日本長期信用銀行(現新生銀行)頭取。その後は会長、相談役最高顧問などを務めた。会長時代も含め20年近くも経営トップの座に君臨し、「長銀中興の祖」、「長銀のドン」と呼ばれた。在職中、リース・不動産・流通といった新興企業へ積極的な貸出姿勢をとったが、これらの企業への貸出はバブル崩壊後ことごとく不良債権化した。日韓経済協会長。
1.勧業銀行から普通銀行に
終戦間もない昭和20年〈1945〉9月、私は日本勧業銀行に復帰した。22年の1月に宮崎一雄さん(のち長銀頭取・会長)が総務部長になり、私はその下で総務課長、今でいう企画課長になった。まだ30歳半ばの若造だったが、戦後の混乱期の中で、「日本経済はどうなるのだろうか」と、日夜語り合ったものである。
GHQは財閥解体、農地改革を進めた後、銀行にも目を向けた。あるとき、反トラスト課のウェルシュ氏が勧銀に来た。重役を集め、「勧銀は全国にわたる独占的な支店網で戦争に協力した。分割せよ」と主張したのには、皆びっくりした。私は分割論に反対する論文を書かされては大蔵省・渉外担当の柏木雄介さん(現東銀会長)や当時大蔵省に出向していた三菱銀行の黒川久さん(現三菱油化相談役)に渡し、GHQのとりなしを頼んだりした。その結果、GHQは集中排除に基づく分割は命じなかった。しかし、23年6月に通達を出し、勧銀など特殊銀行に対して普通銀行か債券発行会社になるかと迫った。勧銀は普通銀行になる道を選んだ。
2.日本勧業銀行から日本長期信用銀行へ
昭和23年(1948)6月、勧銀は普通銀行になった。特殊銀行でも勧銀は興銀と異なり、全国に支店を持ち、多額の預金を預かっていた。6千人の大所帯で、普通銀行として預金業務を伸ばしていくのでなければ、とうてい全行員を養うことができなかった。その後、25年には債券業務も再開していたが、6月に朝鮮戦争が始まり、景気も良くなった。インフレを抑えるために、ドッジ公使によるドッジラインと呼ぶ緊縮財政をとった結果、長期資金が不足し、「特殊銀行だけ債券発行を認めるのはダメだが、どの銀行も債券を出せるならよろしい」とGHQが譲歩してきた。そこで27年〈1952〉2月、国会で審議され、「長期信用銀行法」が制定された。
この結果、勧銀は、既に23年に一次債券発行をやめて以来、普通銀行業務に傾斜しており、再び債券発行をやめ普通銀行となった。その代わり、政府は新しくできる長銀に対しては人材面を含め協力をするということになった。池田勇人蔵相は「政府が支援するから新銀行(長銀)のトップを引き受けて欲しい」と、当時勧銀の副頭取だった浜口巌根さんに白羽の矢を立てた。
昭和27年春の終わりごろ、浜口副総裁は私邸に私を呼び、「これはあなたが決めることで、来なくてもよいけれど、私は新しい銀行に行こうと思っている」と誘ってくれた。私は浜口さんの下で働くことに決めた。設立の準備作業は7月の暑い盛りに始まった。しかし、開業は12月に迫っていた。
新銀行の資本金は15億円。12月1日、勧銀や拓銀、地銀などの出資者が集まり、従業員228人の長銀が発足した。6000人の勧銀からすれば小さな銀行だが、全行員が燃えていた。
3.頭取となり、国際化を目指す
私は昭和44年(1969)、前任の宮崎一雄さんに推されて副頭取、46年6月に頭取となった。頭取になった46年はニクソンショックが吹き荒れ、日本経済が激動の時代に入った年である。業務運営については、国際、国内の業務全般にわたって新たな展開を図るため、一段と専門能力を高め、合わせて長銀グループを拡充する必要性を強く感じた。成功も失敗もあるが、経済の国際化は必至と考え、思い切って人材を投入したのもその一つだ。私自身、会長になってと合わせて海外出張は100回を優に超える。
その結果、今や長銀は、海外に6支店、18の事務所、10の現地法人を持つことができた。国内でも、第一証券、日本リースなどに社長を送り、関係強化に努めた。野村証券の北裏喜一郎さんと相談して第一住宅金融をつくったのもこのころだ。