掲載時肩書 | 作曲・編曲家 |
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掲載期間 | 2016/11/01〜2016/11/30 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1936/11/01 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 80 歳 |
最終学歴 | 仏国パリ国立高等音楽院 |
学歴その他 | 成蹊高 |
入社 | ダーク・ダックスに初編曲 |
配偶者 | 京女、仲人:白洲夫妻 |
主な仕事 | 各国音楽祭、大阪万博、緑の花博、ミュージックフェア、ビッグショー、音楽監督、昴、音楽畑、アレンジャー協会 |
恩師・恩人 | シャラン教授 |
人脈 | 笠置シズ子、岩城宏之、中村八大、永六輔、東山紀之、谷村新司、山口百恵、五木ひろし、ルグラン、 |
備考 | 父:良一 |
氏は作曲・編曲家では、山田耕筰、古賀政男、服部良一、吉田正、船村徹、遠藤実、小椋佳に次いで8人目であるが、親子登場では初めてである。父良一は、1981(S56)に登場している。
1.父良一との作風違い
父良一の作る曲はリズムの乗りが洋楽的で、演歌の源流と言われる「古賀メロディ」に対抗し、「ブルース」「ブギブギ」「タンゴ」など次々とヒットさせたと書いている。しかし、彼自身は父のような流行歌の作家になるつもりはなかった。それはメロディー作りでは父にかなわないと感じていたし、サウンドの魅力にとり憑かれ、編曲に喜びを見出していたからだった。
2.谷村新司の「昴」
音楽番組「ザ・ベストテン」のテーマ曲を書き、山口百恵の引退公演の「音楽監督」を努め、谷村新司の「昴」の編曲を手掛けたり、テレビ草創期の生放送ドラマの音楽やCM音楽にも挑戦、作曲・編曲を合わせて延べ6万曲もあるという。谷村新司が「昴」を作曲し、彼は編曲を引き受けることになった。谷村の要請は歌詞「我は行く-のところでマーチみたいになりませんか。イントロはお任せします」とのこと。雄大さを表現するためホルンをイントロに使ったところ他の楽器音に比べて納得し喜んでくれた。そこで彼は編曲者としての考えを次のように書いている。「作曲者の望むことだけやるのではなく、こちらが感じたものを付け加えることも編曲には必要だ。どう反応してくれるかが編曲者の楽しみであり、反応してくれる歌手が現れると「この人には能力がある」と一目置くことになる」と。
3.両刀使い(作曲・編曲)のメリット
私(吉田)は今まで編曲者は作曲家の補助的な存在であり、表にはあまり出てこない人だと思っていた。しかし、今回の「履歴書」を読み、作曲家の作曲をより優れた音響効果のある作品に仕上げる役割の持ち主であり、作曲、編曲の両方の才能を持つ必要があると感じた。そういえば、宮川泰、中村八大、すぎやまこういち、三木たかしらも作・編曲を手がけられていた。現在のシンガーソング・ライターは作詞・作曲・編曲もこなすというマルチタレントの人たちが多くなっているのが時代を感じさせている。
氏は‘20年6月11日、83歳で亡くなった。この「履歴書」に登場は’16年11月の80歳の時でした。父親の良一氏は1981年7月の73歳で登場している。芸術関係で実親子の登場は、河竹繁俊・河竹登志夫(演劇)、中村鴈治郎二代目・三代目(現・坂田藤十郎)(歌舞伎)、野村万蔵・野村萬(狂言師)、谷口吉郎・谷口吉生(建築家)、服部親子(作曲)の5組である。
1.子供時代から音楽漬け
親子で同じ職業を選んだが、父親の良一氏は幼いころから貧困と闘い、自分の手で独自の作曲家の道を切り開いたが、息子の克久氏は、音楽を志した動機が全く違っていたと書く。父親は復員後、大阪に残してきた貧しい親とたくさんの兄弟のため、何としてもヒット曲を出さなければいけない境遇だった。しかし、息子は、おぎゃぁと生まれたその日から歌謡曲のど真ん中にいた。笠置シズ子や灰田勝彦らが出演する日劇の楽屋が遊び場だったし、東京・吉祥寺の家には有名は歌手や将来のスターがひっきりなしに訪れ、坊や、坊やと可愛がわれた。6歳からピアノを習い始め、高校卒業後、フランスのパリ国立高等音楽院に留学する。帰国後は、歌手のために歌を作ることにさほど興味を持てなかったので、サウンドの魅力にとりつかれ、編曲に喜びを見出したと述懐していた。
2.編曲家の地位を作曲家と同じに
氏はフランスの国立音楽学院の留学経験があるだけに、ブラジルのリオデジャネイロ開催の国際ポピュラー音楽祭の日本代表としての国際舞台や、また大阪万博、テレビ音楽、音楽監督、世界歌謡祭の音楽プロデューサーとしても活躍した。そして1997年にはNYのカーネギーホールで「東と西の出会い」をテーマに東洋音楽のすばらしさも紹介し満場の喝采を浴びた。しかし、氏の功績は編曲家の「アレンジャー協会」を設立し、編曲家の地位を作曲家と同じに認めさせたことだった。「スタジオで指揮をして、歌の指導もして、音のバランスをチエックしてレコードにするまで、ずっと立ち会っているのに編曲料しかもらえない。代役に指揮を任せると、代役には指揮料がでるとはおかしい」からが発端だった。
3.「東京ブギウギ」の生まれた環境
父良一がコロンビアに専属作曲家として入ったのは1936年(昭和11)2月、二・二六事件のころだ。長男の僕は同年11月に生まれた。僕が子どものころの家は東京の吉祥寺にあった。今のJR中央線の西荻窪駅と吉祥寺駅の間で、西荻の方が少し近かった。父の回想によれば、ある日、帰りの電車で良いメロディが浮かんだ。吉祥寺駅からタクシーで帰ることも多かったが、西荻で降りて駅前の喫茶店に飛び込んだ。忘れないうちに紙ナプキンを借り、急いで音符を書き連ねた。「東京ブギウギ」はこうして生まれ、大ヒットした。
4.日劇の舞台
戦後(1945)は銀座並木通りの風月堂2階に父の「服部良一音楽事務所」があった。事務所には笠置シヅ子さんや父の妹の服部富子らが所属していた。父は事務所を拠点に内幸町のコロンビアや有楽町の日劇などを行き来していた。日劇でショーがある日は、父や笠置さんたちは早くから楽屋入りしている。僕ら兄弟も事務所で少し遊んでから日劇に向かうのだった。
戦地から戻った父の初仕事が1946年新春のエノケン一座の音楽監督だったが、日劇で頻繁に仕事をしていた。47年の「ジャズ・カルメン」は名作オペラのジャズミュージカル化という日本初の試みで注目された。笠置さんがカルメン、叔母の富子はミカエラ役で出演している。
僕ら兄弟にとっては、日劇の楽屋は平和な遊び場だった。エノケンこと榎本健一さん、灰田勝彦さん、坊屋三郎さん、益田喜頓さん、山茶花究さんといったスターたちが「坊や、坊や」と可愛がってくれた。順番に挨拶して回ると「おお、来たな」とお菓子がもらえるからオヤツにも困らなかった。
服部 克久 | |
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生誕 | 1936年11月1日 日本 東京府(現:東京都) |
死没 | 2020年6月11日(83歳没) |
学歴 | パリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール) |
職業 | 作曲家、編曲家 |
担当楽器 | ピアノ、指揮 |
活動期間 | 1959年 - 2020年 |
著名使用楽器 | |
Avid Sibelius 8 |
服部 克久(はっとり かつひさ、1936年〈昭和11年〉11月1日 - 2020年〈令和2年〉6月11日[1])は、日本の作曲家、編曲家。東京府(現:東京都)出身[2]。