掲載時肩書 | 山一証券会長 |
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掲載期間 | 1975/04/01〜1975/04/27 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1905/02/22 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 70 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 弘前高 |
入社 | 日本興業銀行 |
配偶者 | 小倉正恒娘 |
主な仕事 | 広島支店開設、日産化学、山一證 券、日本証券業協会、国際電電 |
恩師・恩人 | 小林中、宇佐美洵 |
人脈 | 伊吹山太郎(弘高同期)岩崎彦弥太(東大馬先輩)中山素平・川又克司(興銀同期)松田恒次・耕平、長沼弘毅、小池厚之介、 |
備考 | 馬術、夫婦:クリスチャン |
1905年(明治38年)2月22日 – 1987年(昭和62年)9月25日)は昭和期の日本の経営者。日本興業銀行常務、日産化学工業社長、山一證券社長・会長、国際電信電話会長を務めた。山一の日銀特融が決まり失意の1965年10月には、小林中、宇佐美洵、中山素平、木川田一隆東京電力社長、稲山嘉寛八幡製鐵社長、永野重雄富士製鐵社長などが、当時の財界を代表する面々180人を集めて「日高輝君を励ます会」が開催された。この時、会場に置かれた金屏風に出席者全員が署名して日高へ贈った。日高は、山一社長在任中はこの屏風を社長室に飾り、退任後は日高家の家宝とした。その後は山一の再建に取り組み、日銀特融の完済を果たした。義父は元住友総理事・大蔵大臣の小倉正恒。
1.興銀生き残り攻防、GHQから「A or B」
興銀は第二次大戦中、戦争遂行に必要な金融に深く足を突っ込んでいた。だから戦後、GHQは我が国の長期金融の仕組みをなかなか理解してくれず、最初のうちは「銀行はすべて商業銀行たるべし」という理念を貫いていた。そして遂にGHQから「A or B」の選択を迫られた。Aは商業銀行、Bは債券発行銀行で銀行ではない。これに粘り強く、敢然として立ち向かった侍が、当時の二宮善基副総裁、中山素平理事である。私も総務部長として、GHQとの交渉にしばしば立ち会った。いまでも忘れられないのは、理屈で話の筋を通しても、最後は「これはオキュペーション・ポリシー(占領政策)だ」とうそぶかれこと。仕方なしに引き下がるが、このような問答の繰り返しだった。
そこで神奈川県鵠沼の某社寮に同志が集まり、GHQへの対応に限らず、広く興銀の在り方につき、侃々諤々の論議をおこなった。二宮副総裁を中核に、中山素平、島田英一(元日東紡績社長)、青木周吉(東洋曹達社長)、正宗猪早夫(現頭取)、梶浦英夫(元副頭取)、渡辺省吾(日興証券会長)、私などの隠密会議で真剣そのものだった。
2.経営危機の山一証券へ
昭和39年(1964)10月8日夜9時、日産化学の海外資金調達目的の出張から羽田空港に着いた。翌々10日には待望の東京オリンピックの開会式が予定され、世紀の祭典が待っていた。翌朝出社すると、秘書が待ちかねたように「興銀の頭取がお会いしたい」とのこと。夕方、中山素平頭取に会うと「山一証券が苦しくなっている。テルさんに手伝ってもらえまいか」と漏らした。まさに寝耳に水である。
オリンピックが中盤に近づくころ、岩佐凱実頭取(富士銀)から、また宇佐美洵頭取(三菱銀)からも、次から次へと私への申し入れが続いて秘書氏を面食らわせた。いずれも素平から口説きのあった「山一へ是非とも頼む」ということに絞られるのだった。
日本開発銀行の初代総裁で、素平が理事として仕え、興銀とも関連があって、私自身も指導を仰いでいた小林中さんとは、爾来、あまりお目にかかっていないのに、突然、小林事務所にたずねよと電話してこられた。小林中さんがそのときから証券業界の最高顧問であり、山一の小池厚之助会長(当時)の同郷の先輩とのことを承ったほかは、案の定「迷惑でも山一行きを決断してもらいたい」と要請された。そこで「誰かがやらなくてはならない」と考えるようになった。小林さんの説得は私に「身動きできなくなった」と感じさせた。
3.日銀特融決定の夜
昭和40年(1965)5月22日午後、山一証券の経営再建問題で岩佐(富士銀)、中山(興銀)の両頭取、中村俊男(三菱銀副頭取)の主力3行首脳が列席され、私は共同記者会見をおこない再建策を発表した。しかし、投資家には安心するより山一の経営が苦しくなっていると受け止められた。
このような状況の中で40年5月28日、共同記者会見からおよそ1週間後には、四苦八苦の末に手当した30億円前後が、一日で引き出されてしまった。もとよりこの経過は逐一、政府、日銀にも報告されていたから対策は、それぞれの所管で検討されていた。
たまたま私はこの28日夜、大蔵省、日銀、主力3行のトップ会談がにわかに開かれるようになったとの極秘連絡を受けた。場所は日銀の氷川寮。その日には主力3行の定時株主総会が開かれた関係もあり、会議は午後8時に始まって深夜におよんだ。夜の“氷川寮会談”で、どんな激論が闘われたかは、つまびらかに知る由もないが、最後の断は当時の田中角栄蔵相が下したと仄聞している。このようにして、日銀法第二十五条の史上空前の発動、つまり、日銀の特別融資(無担保、無期限)という伝家の宝刀が初めて抜き放たれたのであった。そして異例と思われる深更の記者発表が、宇佐美日銀総裁邸でおこなわれた。