精密
| 掲載時肩書 | キャノン会長兼社長CEO |
|---|---|
| 掲載期間 | 2026/01/01〜2026/01/31 |
| 出身地 | 大分県 |
| 生年月日 | 1935/09/23 |
| 掲載回数 | 30 回 |
| 執筆時年齢 | 90 歳 |
| 最終学歴 | 中央大学 |
| 学歴その他 | 都立小山台高校 |
| 入社 | キャノン |
| 配偶者 | 千鶴子(女子大英文科) |
| 主な仕事 | 本社工場、経理課、営業、米国、AE-1発売、USA社長、10億ドル企業、外国人脈、本社社長、セル生産、デジカメ、経団連会長、東京五輪組織委員会、経営塾 |
| 恩師・恩人 | 御手洗毅(叔父)、M/フォーブス、ジム・ダン、賀来龍三郎 |
| 人脈 | 小関俊之、滝川精一、鈴川溥、石川正信、北村喬、奥田碩、平岩外四、張富士夫、中村邦夫、安倍晋三、森喜朗、小川一登、 |
| 備考 | 大庄屋で医者一家、座右の銘「熟慮断行」 |
氏はキヤノン出身の「履歴書」執筆者で賀来龍三郎、山路敬三に次いで3人目である。経団連会長経験者でこの「履歴書」に登場は、石坂泰三、植村甲午郎、土光敏夫、稲山嘉寛、斎藤英四郎、豊田章一郎、今井敬に次いで8人目であるが、経団連会長を退任後も、90歳の現在キヤノンの現役トップとして活躍するのに目を見張る。そして、1月30日(最終2日前)には、後任社長を紙面とマスコミで発表にも驚いた。
1.下積み時代
1961年春、キヤノンに入社し、最初の配属先は本社工場の組立第二課だった。一眼レフ用の交換レンズの組立を教えてもらった。工場の後は資金課、会計課、予算課と回されたので会計の勉強に取り組んだ。入社して3年目に配属されたのが国内営業だった。学んだのは、とにかく市場動向を徹底的に掴むことの大切さだった。例えば、社内にいる小売店営業の担当者から話を聞いて回れ、と教わった。自分の営業先が問屋であったとしても、小売店の動向を知っておいた方が良いからだ。
2.海外赴任で解雇通告のつらさ
1966年6月、30歳の私はキヤノンUSAに赴任した。キヤノンは10年ほど前につくったニューヨーク支店をいったん閉鎖しており、現地法人としてこの法人を改めて設立したばかりであった。その後5,6年はカメラの直接販売のため、結成した営業部隊の「7人の侍」が頑張り、営業利益が出るようになった。ところが、第一次オイルショックがインフレに拍車をかけ、米国は深刻な景気後退に見舞われた。
キヤノンUSAは74年の上期にとうとう赤字に転落してしまった。何とかして通期の赤字転落は避けねばならない。滝川精一社長からは「仕方ない。社員を減らそう」と指示された。私の率いるカメラの営業部隊は総勢100人ほどだった。現地法人では最大の人員である。10人以上の社員に私は解雇を通告しなければならなかった。私が解雇を言い渡したのは幹部級やベテランの社員たちだった。相手の話には何時間でも耳を傾けた。通告は3日がかりだった。一緒の部屋にいる間、涙がこぼれそうになるのを何とか堪えた。できるなら、人員削減はしたくない。そう痛感したのは、このときだった。後でキヤノンの社長として日本で「終身雇用を守る」と決意した理由でもある。
3.ロス五輪効果で10億ドル突破企業に
「AE-1」が大ヒットし、北米の一眼レフ市場で販売首位となった翌年、私はキヤノンUSAで五代目の社長に就任した。1979年1月、43歳のときだった。1984年夏に開催されるロサンゼルス五輪のオフィシャルスポンサーの獲得を密かにプロジェクトで進めていた。五輪効果が期待通りなら、キヤノンUSAを一回り大きくするチャンスに繋がる。「Canon」ブランドも世界に浸透させられる。数々のメリットがあったが、スポンサー枠には限りがあり、獲得は困難といわれた。絶対にスポンサーになると決意したら、行動あるのみである。
ロス五輪の組織委員長に就任したばかりのピーター・ユベロスさんに電話でアポイントを取り付けた。ユベロスさんは米国有数の旅行会社を立ち上げた40歳代の実業家だった。彼の説明によれば、スポンサー枠は1業種1社、合計35社に限られるという。カメラの商品力やサービス体制をアピールすると、ユベロスさんから「分かりました。協賛金は300万ドルでどうか」と提示された。当時としてはあまりに高額で、「自動車業界と違い、カメラ業界は小さい。その点を考慮してもらえないか」と掛け合った。真剣さと熱意が通じたのか、「では、100万ドルではどうか」と言ってくれた。もちろん、すぐさま握手した。
100万ドルの投資は十二分に回収できた。最高級の一眼レフに大会記念モデルをつくり、星条旗をモチーフにデザインしたコンパクトカメラも10万台売り切った。報道カメラマンの間でキヤノンの知名度は上がり、その効果は放送機材にも広がった。
4.「フォーブス」で海外人脈を築く
米国は個人主義の社会だ。みな簡単に胸襟を開かない。その点、私は幸せだった。米国ビジネス誌「フォーブス」の社主、マルコム・フォーブスさんとお付き合いするきっかけは、電通(現電通グループ)の現地法人社長、石川信正さんがフォーブス発行人のジム・ダンさんを紹介してくれたことだった。ダンさんは元々、雑誌「ライフ」の広告営業出身、フォーブスで初めて創業一族以外から発行人になったことで有名だった。石川さんとダンさん、私の3人は不思議と馬があり、ダンさんが大好きなゴルフも一緒に楽しんだ。
フォーブスさんの人脈は幅広かった。経営者ではAT&Tのロバート・アレンさん、アメリカン・エキスプレス時代のルイス・ガースナーさんとも知り合った。23年の米国滞在中に生まれた人とのつながりは何物にも代えがたい糧になった。後に知り合う半導体大手マイクロン・テクノロジーのスティーブ・アップルトンさんの経営哲学には共感した。年初には1万人に自らの経営方針を伝える。クリスマスには全社員にターキー(七面鳥)を振舞う。本当に社員を大切にした。
5.緊急の社長登板となり事業選別
1995年8月31日未明、従弟の御手洗肇社長が間接性肺炎で亡くなった。夜が明けて、賀来龍三郎会長と一緒に線香をあげた。会社に戻ると、会長室に呼ばれ、「君が後を継いでくれ」と告げられ、心底驚いた。
私は肇社長の3歳年上であり、彼を支えるのが自分の役割だと思っていたし、そのための布陣を整えつつあった。しかし明くる9月1日、取締役会が開かれて正式に決まり、私は6代目の社長に就任した。バブル経済が崩壊し、日本企業の経営は転機を迎えていた。日本は単独決算が重視されていたが、米国などは連結決算が当然だった。いずれ後を追うと思っていた。社長になって、まずは不採算事業の止血を急がねばならない。早速、米国のカリフォルニア州にあった子会社へ秘密の命令を出す。「撤収の準備を」。
撤退した事業はパソコンだけではない。電子タイプライターや光カード、そしてFLCD(強誘電性液晶ディスプレー)といった事業から手を引いた。太陽電池は京都の研究所も最終的に閉鎖した。私が思うに、会社とは投下資本の拡大再生産を行う機関である。何か商品を売って利益を出し、それを再び投資に回して資本の拡大を図る。その商品がカメラでもパソコンでもいいが、それは手段にほかならない。将来性がないなら、こだわる必要はない。
会社の目的のためには、むしろ将来性のあるビジネスに経営資源を当てるべきである。ドライかもしれないが、それが私の考え方だ。経営者は反発を恐れることなく、自分の責任で物事を決めるしかない。このくらいの気持ちで経営に臨まなければ、事業の取捨選択など厳しい判断は下せない。
6.経団連会長になって
トヨタ自動車会長の奥田碩さんから電話が掛かってきた。唐突に「私の後をやって欲しい。経団連会長は時代を反映すべきだ。今は重厚長大の企業よりハイテク企業だ」と言われた。2005年9月のことである。翌年の5月、経団連の会長に就任した。キャノンから経団連への出向者はおらず、丸越しだった。
就任の初日には職員を集め、こう伝えた。「政治と経済は車の両輪。繋ぐ車軸が政策だ。その車に国民生活は乗っている。だからこそ、政治に政策を訴えていきたい」。そのころの日本経済は暗かった。会長として「希望の国、日本」と呼ぶ経団連ビジョンを纏めたのは、日本再生には国の骨格を変えることが必要だと考えたからだ。
提言の一つが道州制だった。それぞれの道州が徴税権を持ち、米国の州のように行政の大半を担う構想である。道州になれば、予算規模は大きくなる。大胆で独自性のある改革を地方から実現する目的だった。行財政改革に繋がる電子政府の推進、強い農業を実現するアイデアも盛り込んだ。残念ながら、目立った成果は出せなかったと思う。会長在任中の4年間に首相だったのは5人。大臣は85人が交代したと聞く。政治と経済の両輪はかみ合いにくかった。