掲載時肩書 | 作家 |
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掲載期間 | 1956/10/24〜1956/10/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1891/12/05 |
掲載回数 | 8 回 |
執筆時年齢 | 65 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | |
入社 | 毎夕新聞 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 兵役時「女の一生」翻訳、植竹書院「戦争と平和」、中央公論「神経病時代」 |
恩師・恩人 | 滝田樗陰 |
人脈 | 父と尾崎紅葉・泉鏡花・永井荷風、厳谷小波、宇野浩二、葛西善藏 |
備考 | 父:柳浪 |
1891年(明治24年)12月5日 – 1968年(昭和43年)9月21日)は東京生まれ。小説家、文芸評論家、翻訳家である。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。1917年(大正6年)26歳雑誌『トルストイ研究』に「怒れるトルストイ」を発表、トルストイの道徳・教訓を厳しく批判した。若い文学者の会合「三土会」に参加し芥川龍之介・菊池寛・佐藤春夫・久米正雄などと知り合った。
1.尾崎紅葉と泉鏡花の思い出
私が風邪をひいて寝ていた時、ちょうど父を訪ねて来た紅葉が「なに、風邪をひいた?」といって唐紙を開け「早く良くならなければいけないよ」と私に向かって笑顔を見せたが、私はその紅葉の鼻下に生やしていた柔らかな薄ひげと、足に履いていた白足袋とを今でもよく覚えている。32,3歳ころの紅葉だったろう。
また泉鏡花、小栗風葉なども覚えているが、みんな24,25歳ではなかったかと思う。鏡花は畳つきの下駄に縞の着物と羽織で、よく往来のどぶの縁を歩ていたのを記憶している。父を訪ねて来て火鉢を囲んで話している時、鏡花は火鉢の灰に指を突っ込む癖があった。そして私を抱いた鏡花が縁側から庭に降りて青桐の下に行くと雨蛙が小便をし、それが鏡花の手にかかったことがあった。「泉さん、イボが出来ますよ」とその頃うちにいた書生が神経質の鏡花をからかったので鏡花は顔色を変えて私を縁側に下ろし、あわてて手洗鉢に行ってしきりに手を洗っていた。
2.麻布中学時代の理由なき反抗と校長のすばらしさ
私は自分の気に入らない時間には教室には出ずに校庭の奥の灌木の陰で寝転んでいるとか、試験の答案にわざと白紙を出すとか、今から考えるとどうしてそういうことをしたのか分からない。私は化学や物理はほとんど教室に入ったことがなく、試験場ではそれらの科目の答案に「もう一度私を同級に留めても化学(あるいは物理)はできるようになりませんから、他の科目から点を引いて、化学(あるいは物理)に及第点をつけて置いてください」などと書いて出したものである。化学は4年級、物理は5年級でやるのだが、私はこんな答案を書いて、4年級、5年級を過ごしてしまった。それにしてもこういう生徒を叱りもせず、黙って進級させ、卒業させていた麻布中学という中学は、不思議な中学であった。
校長は有名な江原素六さんであったが、当時幹事をしていた村山一さんという人も又偉い人であった。
3.借金は一部返済で残りは棒引き(良き時代)
私は大正2年(1913)4月に早稲田を卒業した。在学中徴兵猶予をもらっていた私は、卒業後間もなく検査を受けると、第一乙の砲兵ということであった。砲兵は3年兵役である。3年も兵役にとられては困る。むしろ一年志願をした方が良いと考えたが、一年志願をするには百何円とか当時としては大きな金を出さなければならないが、金はない。そこで私はモーパッサンの「女の一生」を翻訳した。
ところが、「女の一生」は大変よく売れて、一年志願の費用の何倍かの印税が入ってきた。そのお陰でずいぶん助かった。ところが、私が早稲田を卒業して間もなく、私の一家は霞町付近の物売り店のどこにもかしこにも借金を残して、木村町の方へ移転していた。私は「女の一生」の印税で、それらの借金を払った。
米屋が3軒、魚屋、酒屋、八百屋、そう言った店々であるが、そういう店々のおやじさんたちは、中学1,2年ごろからの私を知っていたので、私は「金が少し入ったので、借金を払いに来た」というと「へへえ、お坊ちゃんがお金をお取りになったのですか」と不思議そうな顔をして私を見守った。
私は全部払うことはできないので、どこの店にも借金の何分の一かずつを払ったが、そうすると、それらの店々のおやじさんたちは、まるで申し合わせたように、「ありがとうございました。もうこれで結構でございます」というや、筆を執って帳面に書き込んである借金の残り全部に棒を引いてくれた。それが一軒残らず全部の商人が、である。それは大正2年の秋で、私は実に楽しいすがすがしい気持ちで自宅に帰った。
広津 和郎 ひろつ かずお | |
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『昭和文学全集 第48巻』角川書店、1954年。 | |
誕生 | 1891年12月5日 日本 東京府東京市牛込区矢来町 |
死没 | 1968年9月21日(76歳没) 日本 静岡県熱海市 |
墓地 | 日本・谷中霊園 |
職業 | 小説家・文芸評論家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 早稲田大学英文科 |
ジャンル | 小説・文芸評論 |
文学活動 | 私小説・奇蹟派(新早稲田派) |
代表作 | 『神経病時代』(1917年) 『二人の不幸者』(1918年) 『死児を抱いて』(1919年) 『風雨強かるべし』(1933年) 『松川事件と裁判』(1964年、ノンフィクション) |
主な受賞歴 | 野間文芸賞(1963年) 毎日出版文化賞(1963年) |
親族 | 父・広津柳浪(小説家) 長女・広津桃子(小説家・随筆家) |
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広津 和郎(廣津 和郎、ひろつ かずお、1891年(明治24年)12月5日 - 1968年(昭和43年)9月21日)は、日本の小説家、文芸評論家、翻訳家。日本芸術院会員。明治期に活動した硯友社の小説家・広津柳浪の子。
早大英文科卒。奇蹟派の中心。評論から小説に転じ、虚無的な人生を描いた『神経病時代』(1917年)が評価される。批評や文学論争でも耳目を集める。作品に『やもり』(1919年)、『風雨強かるべし』(1936年)など。