掲載時肩書 | 全日本婦人団体名誉会長 |
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掲載期間 | 1967/10/17〜1967/11/10 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1886/02/10 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 津田塾大学 |
学歴その他 | 日本女子大、 二松學舍大学 |
入社 | |
配偶者 | 画学生5歳下 |
主な仕事 | 婦人解放と自我の解放・運動、青鞜発刊 、婦人参政権、婦人団体連合会 |
恩師・恩人 | |
人脈 | 高村智恵子(大学)、岡本かの子、野上弥生子、田村俊子、市川房枝、奥むめお、 |
備考 | 父会計 監査人 |
1886年(明治19年)2月10日 – 1971年(昭和46年)5月24日)。東京生まれ。思想家、評論家、作家、フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動家。戦後は主に反戦・平和運動に参加した。『元始、女性は太陽であった』は、女性の権利獲得運動を象徴する言葉の一つとして、永く人々の記憶に残ることとなった。
1.自己を見つめ続ける
わたくしの若いころー明治の末期のわたくしたちにとって、もっとも重大な、のっぴきならぬ根本の問題は、「我とは何か」「宇宙とは何か」「神とは何か」ということでした。女性として性の自覚の前に、まず人間としての求道の姿があったように思えます。今日という時代は、人々がますます外側のことのみに忙しく、自己の内部の世界などは、忘れさられている時代です。自分はいつもお留守になっていることを、考えてみる必要がありました。
2.禅に打ち込む
日本女子大3年の時、「大道を外に求めてはいけない、心に求めよ」という言葉こそは、まさに自分自身の体験し体得したものでない。先人の言葉をただ頭に詰め込んで観念の世界の彷徨に、息詰まりそうになっている、現在の自分に対する、厳しい警告でした。
わたくしはいろいろと思いまどったうえで、木村政子さんと一緒に、坐禅をやる決心をしました。ここで「父母未生以前の自己本来の面目」という公案をもらい、座り方なども教えられ、それからはもう寝ても覚めても、学校の往復の道でも、この公案のことしか心にありません。両忘庵の参禅は、接心の時以外は朝5時から6時ぐらいまでなので、冬の朝は提灯をつけて曙町の家を出て日暮里に行き、それから学校に行くのですから、いま考えればたいへんなことでした。
3.青鞜発刊―女ばかりで作った女の雑誌―
明治44年(1911)9月、「青鞜」を発刊しました。これはわたくし自身の発意から生まれたものでなく、まったく、生田長江先生の熱心なお勧めによるものでした。
最初の発起人は、女子大国文科を出た保持研子さん、保持さんと同級の中野初子さん、木内錠子さん(二人とも幸田露伴の門下生)、物集芳子さん(物集高見博士令嬢)とわたくしの5人でした。この5人が手分けして、当代の女流作家のほとんどの方に、賛助員になってもらうことに成功しました。それは長谷川時雨、岡田八千代、与謝野晶子、尾島(小寺)菊子、小金井きみ子、国木田治子(独歩夫人)、小栗(風葉夫人)、森しげ女(鴎外夫人)などのみなさんでした。
創刊号の編集をすべて終えてから、いろいろな事情で、「発刊の辞」をどうしても引き受けなくなければならなくなりました。深夜鎮座ののち、夜明けごろまでに一気に書き上げたのが、「原始、女性は太陽であった」の一文です。期せずしてこの文章が、同じ時代の女性の魂を揺り動かすことになったのは、その時わたくしの全身全霊に満ち溢れていた、天(あま)がけるような婦人の自己開放の願いが多くお女性から共鳴を得たものでしょうか。
4.語り草の「青い鳥」配役
大正5,6年ごろ、わたくしの婦人運動事務所になっていた一室のアトリエが、近代劇協会のけいこ場になったことがありました。この劇団の公演でメーテルリンクの「青い鳥」を採り上げました。主役はチルチル、ミチルの水谷八重子、夏川静江さん、私の主人奥村のお父さんのチルとおじいさんのチルの二役、友田恭助さんの犬をはじめ、出演者10数人のにぎやかな舞台でした。けいこ場には室生犀星、福士幸次郎、芥川竜之介、長田秀雄さんなどもよく見え、その頃のアトリエはまったくにぎやかなものでしたが、わたくしはほとんど没交渉で、自分の仕事に没頭していました。
5.ペンネーム「らいてう」の由来
わたくしのペンネーム「らいてう」の由来について説明しておきましょう。「青鞜」創刊号に「原始、女性は太陽であった」を書きあげたとき、わたくしは自分の名前で署名することを、ちょっとためらいました。その当時のわたくしは、「青鞜」をやり始めたものの、自分のしなければならないほんとうの仕事がほかにまだあるというような気持ちがあって、いわば「かくれミノ」のようなつもりで「らいてう」と署名したのでした。雷鳥は山と共にわたくしのたいへん好きな鳥ですが、雷という字がどうもしっくりしないので、平仮名で「らいてう」と書きました。ペンネームを使うことには、忠君愛国一筋の官僚である父への遠慮もあったので、平塚の姓はつけず、ただ「らいてう」とだけしるしました。後にジャーナリズムが「平塚らいてう」というようになり、わたくしもいつかそう書くようになりました。