室生犀星 むろお さいせい

文芸

掲載時肩書作家
掲載期間1961/11/13〜1961/12/07
出身地石川県
生年月日1889/08/01
掲載回数25 回
執筆時年齢72 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社裁判所給仕
配偶者一回の見合で
主な仕事みくに新聞、石川新聞、雑誌「感情」「愛の詩集」「抒情小曲集」、小説「幼年時代」「杏っ子」
恩師・恩人萩原朔太郎、滝田樗蔭
人脈斉藤茂吉、北原白秋、木下杢太郎、高村光太郎、若山牧水、恩地孝四郎、芥川竜之介
備考妾腹の子として出される
論評

1889年〈明治22年〉8月1日 – 1962年〈昭和37年〉3月26日)は石川県生まれ。詩人・小説家。戦後、随筆『女ひと』(1955)が好評を博してふたたび活発な活動に入る。自分と娘を描いた『杏(あんず)っ子』(1957)では読売文学賞を受賞。王朝ものの『かげろふの日記遺文』(1958)では野間文芸賞を受賞した。この間、詩もつくり続け、詩集も『忘春詩集』(1922)、『鶴(つる)』(1928)、『鉄(くろがね)集』(1932)、『美以久佐(みいくさ)』(1942)など数多い。不幸な生い立ちのなかに生きる道を求めるところから出発して、ことに晩年は、女性を見つめて深い人生をみいだしている。

1.新聞記者に
21歳の時、裁判所給仕を退く準備をし、越前みくに町に相場新聞で隔日版を出しているみくに新聞に採用が決まり、すぐに役所に辞職届をだして8年間の身悶えを断ち切った。当分、みくに新聞は月給12円を支払うといったが、私が役所では8円しか取っていなかったから、この高給は私を嬉しさで身震いさせた。
 町政の記事ばかり載せているこの新聞の文芸欄に、小説のまねごとを隔日に書き、詞藻欄には詩とか俳句を書き、一頁の上段には文芸評論を真っ向から書き立て、ほとんど私は一人で全紙を書きつぶしていた。私は主筆であったから何でも書けたのである。午前中に書いたそれらの原稿は夕方には印刷になっていて、顔色には出さなかったが私はうれしかった。

2.萩原朔太郎の私への第一印象
大正3年(1914)2月前橋に初めて彼を訪ねた。その以前から手紙の交換で交友を続けていたが、初対面だった。前橋駅に迎えに出た薄緑色の背広に、同じ色のトルコ帽をかむり煙草を咥えた彼は、どう見ても音楽家のような肩の切れ味を見せ、当時の言葉で言えばハイカラの一歩先きを歩いている男であった。私といえば和服でたそがれた書生っぽ姿だったので、萩原はその時のことを何かの雑誌にこう書いている。
 「詩の一つも書くような男だから少なくとも美少年とまではゆかなくとも、それに近い気の利いた男だろうと想像していたのに、長髪茫々の書生っぽだったので、失望してしまった。こんな男に永い間恋人のような手紙を交換していたかと思うと、全く絶望した」と第一印象を露骨に書いている。

3.若山牧水は自作を朗吟
大正の初めころ牧水は花魁の歌などを作り、今までにない短歌に女性の肉体を薫(にお)わせ、新しい動きが歌の素材になっていて私もその放縦な生活意識に、呆れた美しさを感じていた。酔うと美しい声で自作の歌を朗吟する牧水は、萩原や私とは違った歌の大家であった。3人がいても彼一人だけが勝手に飲んでいるようであった。人を寄せ付けない孤独感があり、時折、突然眼を閉じて歌を朗吟し始めていた。
 彼の朗吟は皺枯れた声によく釣り合い、当時、有名だったのである。当時の詩歌人は声を合わせて朗吟する風俗もあったが、それほど無邪気な詩歌人が多かった。

4.小説家への一発勝負
大正8年(1919)、「愛の詩集」「抒情小曲集」の2冊の売上が、毎月印税が入るようになり、結婚したばかりの私たちの生活は幸せだった。しかし、小説家への夢の挑戦を試みた。当時は「中央公論」に掲載されることが作家の条件だった。そこで妻にも内緒で、1月間かかって94枚の小説「幼年時代」を作り上げた。
 私は心で「中央公論」をあてにしていたのだ。滝田樗蔭という編集責任者に直接送りつけて一遍に勝負をつけたかったのだ。私は30歳になっていた。1週間たち10日になっても中央公論社からは返事がない。月の半ばを過ぎたある日、一人の小僧さんが、「実は校正を持って参ったのですが、急ぎますので待っている間にしていただきたい」という。私は冷たい奢りのようなものを感じた。バクチは当たったぞと。

室生むろう犀星さいせい
59歳の室生犀星(1948年)
誕生 室生 照道(むろう てるみち)
1889年8月1日
石川県金沢市
死没 (1962-03-26) 1962年3月26日(72歳没)
東京都港区虎ノ門
墓地 野田山墓地(石川県金沢市)
職業 詩人小説家
言語 日本語
国籍 日本の旗 日本
最終学歴 長町高等小学校中退
活動期間 1913年 - 1962年
ジャンル 小説俳句随筆
主題 近代抒情詩
文学活動 理想主義
代表作 『愛の詩集』(1918年)
『抒情小曲集』(1918年)
性に目覚める頃』(1933年)
あにいもうと』(1934年)
杏っ子』(1957年)
かげろうの日記遺文』(1958年 - 1959年)
蜜のあはれ』(1959年)
主な受賞歴 文芸懇話会賞(1935年)
菊池寛賞(1941年)
読売文学賞(1957年)
毎日出版文化賞(1959年)
野間文芸賞(1959年)
配偶者 室生とみ子1895年 - 1959年
子供 室生朝子
ウィキポータル 文学
テンプレートを表示
室生犀星生誕地跡石碑(室生犀星記念館・金沢市)

室生犀星(むろう さいせい、1889年明治22年〉8月1日 - 1962年昭和37年〉3月26日)は、日本詩人小説家石川県金沢市出身。本名は室生 照道(むろう てるみち)。別号に「魚眠洞」、「魚生」、「殘花」、「照文」。別筆名は「秋本 健之」。日本芸術院会員。

姓の平仮名表記は、「むろう」が一般的であるが、犀星自身が「むろう」「むろお」の両方の署名を用いていたため、現在も表記が統一されていない。室生犀星記念館は「「むろお」を正式とするが、「むろお」への変更を強制するものではない」としている。[1][注釈 1]

生後すぐ養子に出され、室生姓を名乗った。養母は養育料で享楽しようとするような女で、犀星は生母の消息をついに知ることなく、貰い子たちと共同生活を送る。

養母により高等小学校を中途で退学させられ、金沢地方裁判所に給仕として勤めさせられるが、この頃より文学に関心を抱いて、やがて上京する。しかし生活は苦しく、故郷に戻っても、出生・学歴などの理由で失恋し、東京と金沢との間を往きつ戻りつする。この間にうたわれたのが絶唱「小景異情」である。

1915年、萩原朔太郎・山村暮鳥らと詩誌「感情」を創刊。1918年に刊行した『愛の詩集』と『抒情小曲集』は詩壇に新風を吹き込んだ。1919年、小説「幼年時代」「性に眼覚める頃」を発表し、小説に活動の場を移した。長い沈黙のあと、1934年に「あにいもうと」を発表。第2次世界大戦後も沈黙があったが、1956年の『杏っ子』で復活をとげ、その後は小説家として名を上げた。

  1. ^ アーカイブされたコピー”. 2014年8月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年11月4日閲覧。富山新聞、2010年8月5日


引用エラー: 「注釈」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="注釈"/> タグが見つかりません

[ 前のページに戻る ]