掲載時肩書 | 作家 |
---|---|
掲載期間 | 1971/03/01〜1971/03/26 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1899/10/01 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 72 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 官立通信学校 |
入社 | 質屋 |
配偶者 | 18歳時、25歳娘を妊娠 |
主な仕事 | 古本屋、警察給仕、通信士、料理新聞、小説、戯曲、脚本講談、文士劇(父帰る)、やまと新聞、プラトン社 |
恩師・恩人 | 老刑事、久保田万太郎、 小山内薫 |
人脈 | 菊池寛、谷崎潤一郎、岩田専太郎、三宅孤軒、花柳章太郎 |
備考 | 徳川落胤説 |
1899年(明治32年)10月1日 – 1985年(昭和60年)6月9日)は東京市浅草区生まれ。日本の小説家、劇作家。芸道物、明治物、時代物、現代風俗物と広く執筆。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説で多くの読者を獲得した。また、松田昌一の名で映画・演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めた。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当、昭和期の新派に欠かせない人気作家となり、作品の多くは新派の代表的演目となった。第1回直木賞受賞者で、映画化され大流行した『愛染かつら』の作者としても知られる。
1.明治・大正初めの浅草界隈
私は浅草生まれの浅草育ちである。私の子供の時分には、江戸の名残りともいうような静かで風雅な町だった。表通りの町筋は隅田川に沿った一帯とその反対の民家側と、貧富の差異が画然と分かれて一方はお金持ち、一方は貧乏人と貧富両様の生活が隣同士にあったわけだ。貧民の方は車力、日雇人足、各種職人と下職、中には夜店のソバ屋もいて、その日稼ぎの労働者ばかりだが、一方の金持筋は財閥の別宅、冨者の隠居の茶人暮らし、一流の芸人俳優等が隅田川の面した眺めの良い場所に家を構え、見るから豊かそうに生活していた。
ずっと橋場寄りには北白川宮のお屋敷があり、古河銅山で名高い古河市兵衛、森村市左衛門というような富豪が大きな屋敷を構え、俳優では今土橋のそばに沢村宗十郎(先代)、坂東三津五郎(先代)、坂東彦三郎(先代)が住んでいて、尺八の名人荒木古童の住居も風流な家だった。
2.私の文章
芝居と寄席の芸は人間の話し言葉を文字に変えて書く技巧の根元なのだ。私の短い作品を読んでくれた亀井勝一郎さんが、人物の会話描写に優れていると新聞批評に書いてくれた。大衆文学批判をした時の儀礼的修辞であったかもしれないが、亀井さんのような厳しい目を持った人に褒められてうれしかったし、自信のある仕事を褒められて得意でもあった。会話に頼りすぎて、安易に流れる嫌いもあったが、人物のやり取りの内に場面の描写をしていくことが好きだった。その癖は今でも直らず、特徴でもあれば欠点でもあるようだ。しかし、これが自分の特徴と思い、少しずつ磨きをかけて行きたいと思っている。
3.文士劇の手伝いと出演
勤めている料理新聞社社長の三宅狐軒氏から、「来月の明治座に文士劇があり、俺もそれに出るから楽屋を手伝え」と命令された。文士劇といっても、そのころは演劇関係者と批評家連の、演芸通話会という集団が年に一度ずつ素人芝居をする。田村西男(田村秋子の父)、森暁紅、坂本猿冠者という人たちの中へ三宅も入って芝居をする。水谷八重子と田村秋子が鎧を着て男装し家来になって出たことを覚えている。これが初期の文士劇で、私はただ楽屋にいてお手伝いをしたに過ぎないが、後年これが役立ち、文芸春秋社が文士劇をやるようになってからは私も出してもらった。
文春文士劇の最初は菊池寛の「父帰る」で、劇場は焼けない前の東宝劇場だった。年表を調べてみると、昭和9年(1934)の9月で、私の賢一郎が35歳、今日出海の信二郎が31歳、思うと全く夢物語だ。父親が久米正雄でまだ健在だったし、名作のお蔭で小林一三先生が涙ぐんで、素人にしては惜しいものだと、褒めたのか冷やかしたのか判らないが、私たちは大喜びをしてしまった。
これが病みつきになって、その後も勧められるがままに文士劇に出て「五人男」の弁天小僧、「忠臣蔵」の勘平、「源氏店」の与三郎、「陣屋」の盛綱、「一本刀」の駒形茂兵衛等々、沢山の役をやらせてもらった。印象に残っているのは森田たまさんだ。芝居はうまいとは言えなかったが、その人柄のよさが微笑ましく、彼女の母親役は、舞台の私にとって母と思って大事にしたい実感が湧いた。
4.水谷八重子評
水谷は不思議な女優でいつまで経っても舞台に歳を取らせず、花柳章太郎が亡くなった後はどうも亭主役者に恵まれない。しかし、それにしても驚くのは八重子の若さだ。どんなに若い亭主を持っても釣り合わぬと思ったことがない。これは何とも驚くべき奇跡だ。女優の歴史が始まって以来こんな人は他にいない。呆れるというより水谷君の精進の良さが今日の彼女をつくっているのだと思う。若いときには恋愛もし、結婚もし、良重を生んでいるがそれっきりで浮いた話はほとんどない。
川口 松太郎 | |
---|---|
1954年 | |
誕生 | 松田 松一 1899年10月1日 東京市浅草区浅草今戸町 |
死没 | 1985年6月9日(85歳没) |
墓地 | 雑司ヶ谷霊園 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 石浜小学校卒 |
ジャンル | 小説、戯曲 |
代表作 | 『鶴八鶴次郎』(1936年,のち劇化) 『明治一代女』(1936年,のち劇化) 『愛染かつら』(1942年) 『新吾十番勝負』(1957-59年) 『しぐれ茶屋おりく』(1969年) |
主な受賞歴 | 第1回直木三十五賞(1935年) 毎日演劇賞(1959年) 菊池寛賞(1963年) 吉川英治文学賞(1969年) 文化功労者(1973年) |
ウィキポータル 文学 |
川口 松太郎(かわぐち まつたろう、1899年(明治32年)10月1日 - 1985年(昭和60年)6月9日)は、日本の小説家、劇作家。本名松田松一とする資料もある[1]。東京市浅草区生まれ。芸道物、明治物、時代物、現代風俗物と広く執筆。巧みな筋立てと独自の話術で庶民情緒を描いた大衆小説で多くの読者を獲得した。また、松田昌一の名で映画・演劇脚本も手がけ、大映専務などを務めた。特に、新生新派の主事として自作小説の脚色や演出を担当、昭和期の新派に欠かせない人気作家となり、作品の多くは新派の代表的演目となった。第1回直木賞受賞者で、映画化され大流行した『愛染かつら』の作者としても知られる。芸術院会員。文化功労者。
後妻は女優の三益愛子。三益との子は俳優の川口浩(長男)、川口恒(次男)、川口厚(三男)[2]、元女優で陶芸家の川口晶(国重晶)(長女)。