掲載時肩書 | 俳優 |
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掲載期間 | 1974/06/22〜1974/07/20 |
出身地 | 神奈川県 |
生年月日 | 1905/12/13 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 商業高校 |
学歴その他 | |
入社 | 新国劇17歳 |
配偶者 | 沢田ファンの芸妓 |
主な仕事 | 「瞼の母」、象潟事件(関東震災)、NHK 放送、「国定忠治」「一本刀」「人生劇場」 |
恩師・恩人 | 沢田正二郎 長谷川伸 |
人脈 | 久松喜久子(新国劇・母)、美濃部俊吉、高田保、 辰巳柳太郎、俵藤丈夫 |
備考 | 娘仲人:辰巳夫妻 |
1905年12月13日 – 2004年11月26日)は横浜市生まれ。新国劇の俳優。澤田正二郎が率いる新国劇に入団。正二郎の急死後、辰巳柳太郎と共に主役級に抜擢され、1987年(昭和62年)に新橋演舞場で劇団創立70周年記念公演をうけて劇団を解散するまで新国劇の大黒柱として活躍。辰巳とは「動の辰巳、静の島田」と好対照のライバルとして知られた。1994年(平成7年)には『十時半睡事件帖』で主演。日本のテレビドラマ主演俳優の最高齢記録も樹立し、話題になった(現在もこの記録は破られていない)。
1.新国劇入団
大正12年(1923)-関東大震災の年―ぼくはさる人の紹介状を持って浅草公園劇場の楽屋に沢田正二郎先生を訪ねた。入口に、ひいきより机竜之介さん江と染め抜いたのれんが掛かっていた。
初対面の先生は、大きな鏡台前の大きな座布団の上にあぐらをかき、もろ肌ぬぎの姿で後ろ向きに、その折上演していた「井伊大老の死」の大老の顔をつくっていた。鏡の中の沢田正二郎がそのまま井伊大老のような気がして、なんともいえぬ威圧感があった。
先生は紹介状を読むと、大きな目玉をぼくの方にギョロリと光らせ、「君、野球できるか」と意外な質問をした。面食らったぼくが、「はい、やります」とおずおずと答えると、「よし」。以上の会話だけで、ぼくは新国劇座員になることができた。ぼくの初舞台は入座3日目、「井伊大老の死」の籠かき役、17歳のときでした。
2.名優・沢田正二郎の死
劇界の風雲児として自他ともに許した沢田先生が新橋演舞場で公演中、中耳炎悪化のために倒れたのは昭和4年(1929)の春のことである。
先生の死を悼む告別式は8日、日比谷公園の野外大音楽堂で、数万のファンに囲まれ盛大に行われたが、この大音楽堂こそは、関東大震災の大正12年(1923)10月、被災した東京市民を慰安すべく、沢田先生が、歌舞伎十八番の「勧進帳」を上演した思い出の場所であった。
大震災により東京は一面の焼け野原と化し、数百万の市民は家を焼かれ財を失い、帝劇、歌舞伎座はじめ各劇場は跡形もなく消え失せ、すべての演劇人は茫然自失の状態に陥った。このとき、沢田先生は、新国劇を愛し育ててくれた東京市民のために、謝恩と慰安と激励を兼ねた野外劇の上演をいち早く決心したのだった。そして、交通、音信が一切途絶えた非常事態の中を東奔西走し、各方面の温かい協力を得て、ついに、秋晴れの三日間、十数万の市民を前に、「地蔵教由来」「勧進帳」などの野外公演を実現した。
3.好敵手:辰巳柳太郎
辰巳という男を、一口に言うと、熱しやすく、さめやすく、大雑把で、細かくって、強くって、弱くって、ぞろっぺで、投げやりで、おかしくって、悲しくって、冷たくて、あたたかく・・・とにかく複雑である。その辰巳が強烈な個性に支えられているときはいいが、いったん崩れだすと収拾がつかなくなる。例えばゴルフである。
彼は、調子に乗り出すと、あれよあれよと突っ走る。だが十八ホールのうちで必ず大きなミスをする。ひとたびミスを犯すと、「わぁーッ」とコース中に響き渡る大声を発して芝生にひっくり返り、あとは野となれ山となれ、ガタガタッと崩れていくのが常である。その咆哮ぶりは、遠くでプレーしている人さえ、何事かと振り返るくらいだ。ぼくはそんな辰巳をライオンの放し飼いと呼ぶのだが、そのくせ下品でなく憎めない。喜怒哀楽をストレートに出す坂田三吉式”人間ゴルフ“だからである。
何はともあれ、舞台ばかりかゴルフにまで、たぐいまれな好敵手に恵まれたぼくは日本一の果報者というべきだろう。その宿縁の相棒である辰巳と二人で、昭和44年(1969)、思いがけなく紫綬褒章の喜びを分かち合うことが出来た。
4.瞼の母
優しかった生母が8歳のとき病死した。やがて継母が来てくれ我が子のように可愛がってくれた。しかし、この継母は彼と同い年の男児を前の婚家に残しての再婚で、残してきた実子への思いで彼に愛情を注いでくれたのであった。
彼が12歳のとき、父親が死ぬと継母は家を去り消息を絶った。彼は天涯孤独となり、この母親を求めて涙にくれた経験をもつ。そして後年、彼が役者として名が出てきて『瞼の母』を演じたとき、実子に伴われてこの母親が芝居小屋を訪ねてきた。そのときの感慨を次のように書いている。
「お前、いい役者になったねえ……」と(中略)ほめてもらったことを、千の劇評でほめられたように、うれしく感じた。
また、彼の舞台の初演時、原作者・長谷川伸が来てくれ、2階の桟敷席から食い入るように観ていた。彼は忠太郎になって演ずるとき、芝居と現実がダブってしまい、涙ながらの演技となった。
先生は手ぬぐいで、なんべんもなんべんも涙をぬぐわれた。(中略)芝居半ばで、危うくせりふを絶句しそうになったりした。
しまだ しょうご 島田 正吾 | |
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娘とともに(1951年) | |
本名 | 服部 喜久太郎 |
生年月日 | 1905年12月13日 |
没年月日 | 2004年11月26日(98歳没) |
出生地 | 横浜市 |
国籍 | 日本 |
職業 | 俳優 |
主な作品 | |
テレビドラマ 『大激闘マッドポリス'80』 『ひらり』 『十時半睡事件帖』 映画 『日本のいちばん長い日』 『八甲田山』 舞台 『ビルマの竪琴』 『風林火山』 |
島田 正吾(しまだ しょうご、本名: 服部 喜久太郎〈はっとり きくたろう〉[1]、1905年〈明治38年〉12月13日 - 2004年〈平成16年〉11月26日)は、新国劇の俳優。横浜市生まれ。