掲載時肩書 | 指揮者 |
---|---|
掲載期間 | 2003/10/01〜2003/10/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1932/09/06 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 東京藝術大学 |
学歴その他 | 学習院 |
入社 | |
配偶者 | ピアニスト |
主な仕事 | 打楽器(木琴)→ティンパニー>指揮 者、NHK世界演奏旅行、 |
恩師・恩人 | 小出浩平、岩井貞雄 |
人脈 | 平岡養一(憧れ)、矢代秋雄、白木秀雄(同期)、近衛秀麿、山本直純(1下:学友会交響楽団)、外山雄三、芥川也寸志、武満徹、 |
備考 | 父官僚 |
1932年9月6日 – 2006年6月13日)は東京生まれ。指揮者。指揮法を渡邉暁雄と齋藤秀雄に師事。 近衛管弦楽団(近衛秀麿が主催)のティンパニ奏者(学生のため入団はせず)としてデビューしている。作曲家の山本直純は芸大で岩城の1年後輩に当たり、2人は大学時代からの悪友であった。「初演魔」として知られ、特に自身が音楽監督を務めるオーケストラ・アンサンブル金沢では、コンポーザー・イン・レジデンス(専属作曲家)制を敷き、委嘱曲を世界初演することに意欲を燃やした。
1.観音様のお告げで治る
小学校5年の時、急に左足の力が抜けて歩けなくなった。医者に行き、レントゲンで調べてもらうと「骨髄炎」と診断された。なかなか病状はよくならない。あるとき、お医者さんが往診に来て隣の部屋で、母と小声で話しているのを聞いてしまった。「体力が回復するのを待って、膝の上で左足を切断することになる」と。
恐ろしいことを聞いてしまった。その晩の夢に、観音様が出てきて、「朝鮮人参を焼酎に漬けて、そのエキスで湿布すると、あなたの足は治るわよ」。さっそく、父に頼んで買ってもらい、人参をかじると苦かった。
母がお医者さんに許可を求めると、お医者さんは笑って「お子さんの気のすむように」と言ってくださった。
夢の中の観音様のお告げを守るために、僕はうるさく母に言って、一日に何度も、この湿布を取り換えてもらった。2週間ほど経ってお医者さんのところに行くと、足をぎゅっと押さえられても痛くないのだ。レントゲンを撮ると、とても驚いた。患部が消えていたのだ。とにかく僕の足はこれで切断を免れた。
2.平岡養一氏と初対面
ロサンゼルスのミュージックセンターの最上階に、「ランチオン・アット・ミュージック」という対談番組を放送するレストランがあった。ここで有名指揮者や独奏者が招かれて、トーマス・キャスディというホストと昼食をとりながら、おしゃべりし、自分のレコードを聴かせたりする番組だった。このトーク番組に初めて出て、どういういきさつで自分が音楽家になったかを、喋っていた。
日米抑留者交換船で日本に帰ってきた平岡養一さんの初放送を聞いて、平岡さんに憧れ、それから木琴を始めた話をした。会話の合間に、しばらく僕のレコードをかけていた時に、レストランの片隅のテーブルから、小さなおじさんが笑いながらやってきた。平岡養一さんだった。この近くを通りがかり立ち寄ったと。そのまま平岡さんも参加し、楽しい生放送となった。これが8歳から憧れていた平岡さんとの初対面だった。
3.天才ドラマー白木秀雄
打楽器で東京芸大を受けた10人のうち、僕ともう一人、つまり二人の受験生が合格した。一緒に入学したのは、柏倉秀康という、神田生まれの欲張った名前の奴で、ジャズドラムのものすごいテクニシャンだった。
芸大に入る前は、ブルーリズムというバンドのドラマーだったが、入学直後に日本最高のフルバンド、ブルーコーツに引っこ抜かれ、白木秀雄という名前で、ジャズ界のスターになった。ジョージ川口とか、フランキー堺らとのドラム合戦が有名だったし、水谷良重(いまの八重子)さんと結婚したり別れたりと、いつも大きな話題の発信者だった。入学して半年で芸大を退学し、スター街道を驀進したが、早世されたのが残念。
4.変わった指揮者・山本直純
新学期になり、新入生が入ってきた中で、作曲科の面白い奴と、食堂で出会った。「打楽器科の岩城さん?ぼくは作曲科の山本直純です。ナオは不正直のジキ、ズミは不純のジュンです」と自己紹介した。
彼はピアノはピアノ科学生そこのけの上手さで、バイオリンでもトランペットでも楽器は何でもこなしたし、耳の良さは学内で一番、いや、わが国で最も優れた能力を持っていた。ただ声を出すとオンチなのだ。それで芸大の入試を飛び級で受けたのに二度落ち、三回目でやっと入学できた。僕と同い年なのに一学年下の学生になったのである。