平岡養一 ひらおか よういち

芸術

掲載時肩書木琴奏者
掲載期間1980/08/31〜1980/09/30
出身地兵庫県
生年月日1907/08/16
掲載回数30 回
執筆時年齢73 歳
最終学歴
慶應大学
学歴その他慶應予科
入社卒後米国渡航
配偶者日系 医師娘
主な仕事父の米友人、NY/NBC(ラジオ)、帰国→再渡米(永住権)、ビクター、NHK、カーネギーH、慶応賛歌
恩師・恩人ヘンリー小林、ブレナー
人脈藤原義江、山田耕作、 田中洋子、R/ロサート、D/ケイツ、小澤征爾、
備考幼児・上口蓋破裂
論評

1907年8月16日 – 1981年7月13日)兵庫県生まれ。木琴(シロフォン)奏者。父の兄が日本初の野球チーム創設者の平岡凞である。中学3年の時に5円の木琴を買い、独学で練習を重ねる。1962年11月、ニューヨーク・フィルハーモニーの独演者としてカーネギー・ホールで日本人として初の出演。翌年、永住権を取得し家族と共にカリフォルニア州に移住。5年後には市民権を獲得。日本とアメリカを行き来しながら精力的に演奏活動を行った。

1.母の教え
私は生まれたときから虚弱だったうえ、上口蓋破裂で言葉に欠点があり、学校に入ってからは友達によくからかわれ、べそをかいて帰ってきたが、そんな時、母は口癖のようにこう言った。
 「神様というのは、人間に何か一つ足りないものをつけていますが、一方で、世界中の誰にもないような良いものをつけてくれているものです。お前は必ず、今に人並みすぐれた、世界で一人の人間になれるということを忘れてはなりません。ただ、それが何であるかということは、お前が自分で見つけなくてはいけないんですよ」
 後年、私が木琴に巡りあい、これこそ私のいくべき道と思い定めたのも、母のこの言葉のお蔭であった。

2.ニューヨークNBCラジオ放送に採用
昭和5年(1930)6月に横浜港を出て、ニューヨークで9月になっても売り込み出演は決まらなかった。貧乏生活の最中、マネジャー回りにくたびれ果てたころ、ふと父の昔友人の紹介で、NBC放送の副社長ジョン・エルウッド氏に会うことができた。15分のオーディションを受けると、後日、電話がかかり「15分番組に出てもらいたい」との連絡があった。
 NBCにはニューヨークをキーとして、全米にまたがる青と赤と呼ぶ2つのネットワークがある。私が出演したのは青い方のWJZで、午後一時半からの「メトロポリタン・エコース」という15分番組であった。バリトンやソプラノの人たちとの共演で、今でも覚えているが、演奏料が25ドル、楽器の運送代が7ドル50セント、計32ドル50セント。放送が終わるとすぐ、階下の会計で支払ってくれた。初めて米国で稼いだ金である。
 この放送の評判が良くて「翌年3月15日から、日曜を除く毎朝放送をしてもらいたいので、すぐ専属契約を結んでほしい」となった。このプログラムが、その後、私が戦後交換船で帰国するまで11年半の長きにわたって続くことになる。このレギュラー番組出演のお蔭で耐乏生活とも別れることができたのです。

3.リサイタル後の涙
昭和11年(1936)12月21日の夜、いよいよリサイタルの幕が開いた時、多少の緊張はあったものの、怖いとか気にすることは何もなかった。万全の事前練習をしていたからだ。ステージから見ると客席は一杯で、日本人や米国人の知った顔もたくさんあり、安心して演奏できた。第一部はピアノ伴奏でのソロ演奏、第二部は、ニューヨーク・フィルハーモニーの四重奏団の人々の応援を得て、思い出深いモーツアルトの「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」などを絶対の自信を持って共演することができた。
 けれど、演奏会を終わったその夜、私は一睡もできなかった。新聞の批評がどう出るか心配でしょうがなかったからだ。会場に来た人よりはるかに多くの人が新聞の批評を読んで、私の評価を決めるからだ。ニューヨークの歳末、真っ暗な午前五時に起き、朝刊を買った。薄明りのスタンドの明かりで読んでみた。
 一段抜きの、大きな見出しの付いたリサイタル記事が目に飛び込んできた。上から下まで縦一段全部を使った記事は、よほど良い批評のとき以外はない。これを見た途端に涙がポロポロ出たのを今でも覚えている。努力してきたかいがあった。やっと父母の期待に応えることができた。友人たちの温かい援助にこたえられた・・・。さまざまな思いが一つになった涙であった。

平岡 養一
1955年
基本情報
生誕 (1907-08-16) 1907年8月16日
出身地 日本の旗 日本兵庫県尼崎市
死没 (1981-07-13) 1981年7月13日(73歳没)
学歴 慶應義塾幼稚舎卒業
慶應義塾普通部卒業
慶應義塾大学経済学部卒業
ジャンル クラシック
担当楽器 シロフォン
活動期間 1927年 - 1981年

平岡 養一(ひらおか よういち、1907年8月16日 - 1981年7月13日)は、日本木琴シロフォン)奏者。兵庫県尼崎市出身。

妹はフィギュアスケート選手の平岡露子ミュージシャン平岡精二はいとこの子。

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