掲載時肩書 | 東京大学名誉教授 |
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掲載期間 | 2000/07/01〜2000/07/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1919/02/27 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 三高 |
入社 | 京都博物館 |
配偶者 | 父弟子娘 |
主な仕事 | 京都国立博物館、神戸大、東大、等伯・宗達・光琳展・著、花家元代行→娘、群馬県立女子大 |
恩師・恩人 | 小林市太郎教授 |
人脈 | 溝口健二、円城寺次郎、大仏次郎、北杜夫、辻惟雄、辻邦生、ジョー・プライス |
備考 | 父華道・真生流家元 |
1919年2月27日 – 2001年5月22日)は大阪生まれ。美術史学者。東京大学名誉教授、群馬県立女子大学名誉教授。近世初期の長谷川等伯、俵屋宗達、尾形光琳など琳派の研究が専門。画家の伝記的研究に努め、長く美術誌「國華」の主幹を務めた。浮世絵の祖は岩佐又兵衛だとする説を否定した藤懸静也の弟子であり、自身ではその説に異を唱えられないとして、弟子の辻惟雄に又兵衛研究を勧めた(辻『岩佐又兵衛』)。
1.琵琶湖遭難(琵琶湖周航の歌ができる2年前)
三高3年生となった昭和14年(1939)9月23日、クラスメート10人は、大津から遠漕用のボートを漕ぎだした。琵琶湖周航は3年生の時の記念行事なので、体調が悪かった私も報道班として参加した。堅田の沖に達したころ、次第に風が強くなり、琵琶湖特有の三角波が立ち騒いだ。風はますます強くなり、ボートに水が飛び込むようになった。手が空いているのはカメラマンの私一人なので、帽子で懸命に水を掻き出したけれど、水は減らずに増すばかり。みんなが「わぁー」言った途端、ボートが転覆した。岸まで2㎞程度。
2時間以上たっただろうか。私はどうしたのか、時計やズボンまで捨てていた。オールを支える鉄の輪に引っかかるのを恐れたように思う。寒さで水から出ている裸の胸の肉がブルブルとわななき、驚いて両手で押さえたところ、下半身が猛烈に痙攣した。もしボートにすがっていなかったら、私はその全身痙攣で溺死していただろう。
2.俵屋宗達と長谷川等伯の二兎を追う
ちょうど30歳になった昭和24年(1949)ごろ、私は専門と決めた近世絵画研究でも、宗達と等伯の二兎を追っていた。恩賜京都博物館(現京都国立博物館)には、等伯関係の作品が数多く集められており、宗達も「風神雷神図」の他、水墨画の傑作「牛図」などがあって私を魅惑する。東の智積院には等伯一派の「楓桜図」の障壁画があり、南の養源院には宗達の「唐獅子・象図」がある。醍醐寺で宗達の「舞楽図屏風」を調査した後は、三宝院の等伯一派の障壁画を鑑賞するというありさまである。
3.仁和寺の余禄
「等伯研究序説」を完成したころ、御室仁和寺の小川義章師より、境内に小さい家やお堂もあるからしばらくの間でも移ってこないかとの誘いがあった。ご厚意に甘えて近くのお堂を書斎とした。
仁和寺は現在でもしばしば時代劇の舞台に使われているが、朝出る時には何もなかった境内に、夕方には忽然と町屋が建っていたりした。市川右太衛門や片岡千恵蔵などがチャンバラをして面白いと妻や長男が報告する。夜、近所の映画監督溝口健二さんの家で芸談に花を咲かせた。
4.光琳展と大佛次郎氏
光琳生誕3百年を記念して、昭和33年(1958)秋に、日本経済新聞社主催の「光琳展」が開かれた。私は監修の田中一松先生から出品作の選定に協力するように言われ、主催社の円城寺次郎常務に紹介された。円城寺さんは精力的に作品調査を斡旋してくださった。おかげで3か月ほどの間に4百点あまりの光琳画を集中的に見ることができ、光琳の贋作がいかに多いかを知った。この調査によって、次第に光琳画の制作年代の推定まである程度見分けが可能となった。
その間のもっとも楽しい思い出は、鎌倉の大佛次郎氏のところで、水墨の「竹梅図屛風」を見つけたことである。私は一見するなり、「これは光琳水墨画の傑作だ」と大声を出し、円城寺さんは「重要文化財クラスだ」と喜ばれた。この光琳展と図録編集への協力によって、私は以後の光琳研究への自信を深めることができた。