掲載時肩書 | 前連合会長 |
---|---|
掲載期間 | 1996/08/01〜1996/08/31 |
出身地 | 大阪府 |
生年月日 | 1929/07/18 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 67 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 逓信講習所 |
入社 | 郵便局 |
配偶者 | 見合い:5歳下 |
主な仕事 | 全電通(支部役員)、社会党員、スト権スト(富塚・保坂・山岸)、電電改革3法案、連合(総評、同盟、民間連合) |
恩師・恩人 | 佐伯良治 |
人脈 | 久保等、国労(富塚)、全逓(保坂尚郎)、全電通(山岸)、矢野絢也、真藤恒、田辺誠、小沢一郎、村山富市 |
備考 | 特攻隊、 |
1929年(昭和4年)7月18日 – 2016年(平成28年)4月10日)は大阪生まれ。労働運動家。日本労働組合総連合会初代会長、国際郵便電信電話労働組合連盟(PTTI)会長、情報通信産業労働組合連合会委員長、全国電気通信労働組合(全電通)委員長を歴任した。組合員800万人の巨大組織の指導者となった山岸はその組織力を背景に、政権交代のある政治制度を構築するための政治改革に乗り出した。1989年の参議院選挙では、日本社会党・公明党・民社党の三党協力のための受け皿として、連合の会を結成して参加させ、11名を当選させ、社公民連合を推し進めた。
1.組合の世界へ
昭和23年〈1948〉、逓信講習所を卒業後、最初の配属は地元の石動郵便局だった。職員60人。私は内勤で、郵便物の受け渡し、差し出しと配達区分、電報の送受信といったところが主な仕事だ。この当時、美空ひばりのデビュー、太宰治自殺の年である。そして国民は1年で3倍というインフレにあえいでいた。食糧を中心とした配給の遅配に、庶民は持ち物を売ってはヤミ物資で飢えをしのぐタケノコ生活だった。
当時の全逓石動郵便局支部長は電信係の主事だったが、官僚的な人物だった。書記長が同じ係の主任で、この男もまた私の目には生意気に映り、私は二人がどうにも気に入らない。
いじわるもされたので、組合の会合がある度、私は二人をやり込めた。地区青年団の弁論大会で何度も優勝して多少弁には自信があった。そんな私の度重なる追求に、ある時二人は立ち往生した末、「そんなに言うならお前がやってみろ」と、とうとう支部長、書記長のポストを投げだした。「おお、やってやるよ」。売り言葉に買い言葉だ。昭和24年(1949)初め、私は支部執行委員になった。
組合活動に学歴は関係ない。知力、体力、胆力の勝負だ。議論や演説で人動かすのは快感ですらある。
マニュアルのない自由さにもひかれた。「おれ、組合の水がおうてるんかな」。人生この道で行こう、という気持ちが芽生えてきた。
2.共産党系に負けない方法
組合でいささか心もとない味方を抱えながら、共産党系に負けない方法を模索していた。それには方針を決定する会議で採決させないことしかなかった。私は「言論左派、行動右派」に徹した。例えば彼らが唱える「合理化反対」には賛同し、むしろストも辞さずの姿勢さえ見せる。その後に主張する論点は「オール・オア・ナッシングではダメ」だということだ。強硬な姿勢は格好はいいかも知れないが、過去の教訓はこの戦術で敗れた場合、何も得るものなく、最後は経営側の思惑通りの結果に終わることを示している。
つまり「提案には対案を」というところに誘導するのだ。共産党の諸君が聞いても、自分たちの意見がかなり採用されたと思える形に持って行くのが狙いだった。こうしていくつもの難題を乗り切り、大阪電信支部委員長5年というこの支部での最長不倒記録を作った。同時に私は人心を掴む術(すべ)を学んだ気がする。
3.連合(日本労働組合総連合会)の結成
戦後日本の労働運動史は左右、官民入り乱れて分裂・抗争を続けた歴史でもある。連合結成以前は長い間、総評、同盟、中立労連、新産別の労働4団体が併存し、総評・社会党、同盟・民社党という政治ブロックが形成されてきた。これに官公労、民間労組の肌合いの違いも重なり、複雑な対立の図式を描いていた。
こうした状態を解消し、労働戦線を統一しようという夢と希望は早くからあった。昭和42年〈1967〉初頭に全逓委員長、宝樹文彦氏が雑誌に発表した「労働戦線統一論」がこれに点火した。以来、45年に労働戦線統一世話人会が発足、48年の民間労組共同会議へと、民間主導の形で、曲折を経ながら努力が続く。
昭和57年〈1982〉12月、41単産430万人を集めた全日本民間労働組合協議会(全民労協)が誕生、こうして試行錯誤を重ねつつも戦線統一のムードが高まってきた。このように戦線統一は民間先行方式がとられたが、本当の統一のためには「官」との合体が必要だった。しかし民と官では基本的に体質が違う。
私が出身母体の全電通は民営化以前の40年間は「官」の立場でありながら、長い間、電電公社の下請け関連企業の民間労組と産別共闘を行ってきたことなどから、私の立場はある程度「民」もわかっていた。そんな「水陸両用」の面も、私が60年に全民労協副議長に就任した後、統一問題を手掛けるにあたって大きなプラスとなった。
全民労協は62年〈1987〉11月20日、全日本民間労働組合連合会(民間連合)に発展し、555万人を結集した民間労働運動の一大センターが発足した。
63年秋、総評最大の官公労組、自治労が方針を転換して戦線統一に踏み出した。翌年2月、同盟も解散を決議。これが決め手となって官民とも統一の動きが決定的になった。総評も発展的解散に至り、遂に先行した民間連合と官公労が合流して我が国唯一のナショナルセンター、日本労働組合総連合(連合)が産声をあげた。忘れもしない。平成元年〈1989〉11月21日、場所は東京・新宿の厚生年金会館であった。
氏は、’16年4月10日86歳で亡くなった。「履歴書」に1996年8月の登場は67歳のときであった。労働界からは、滝田実(ゼンセン同盟会長)、太田薫(総評議長)、宮田義二(鉄鋼労連会長)に続いて、山岸氏の4名である。
氏は、旧電電公社の労働組合、全電通の委員長を経て1989年11月に総評と同盟が合流して結成した連合の初代会長に就任した。当時800万人だった組合員の組織力を活用し、国鉄労働組合のスト、郵政民営化反対を主導した。また、社会党などの支持団体として存在感を示し、自民党一党支配を打破するため、93年に自民党を離れた小沢一郎氏と連携し、非自民の細川政権樹立に尽力した。
その後の羽田内閣では、小沢(旧自民)、市川雄一(公明)、米沢隆(民社)のトリオ主導で社会党排除となったため、小沢氏と袂を分かった。この間の舞台裏を「履歴書」では詳細に書いている。
山岸 章(やまぎし あきら、1929年(昭和4年)7月18日 - 2016年(平成28年)4月10日)は、日本の労働運動家。従三位。勲一等瑞宝章受章。
日本労働組合総連合会初代会長、国際郵便電信電話労働組合連盟(PTTI)会長、情報通信産業労働組合連合会委員長、全国電気通信労働組合(全電通)委員長を歴任した。