宮田義二 みやた よしじ

団体

掲載時肩書鉄鋼労連会長
掲載期間1978/12/08〜1978/12/31
出身地山口県
生年月日1924/04/23
掲載回数24 回
執筆時年齢54 歳
最終学歴
工業高校
学歴その他
入社八幡製鉄
配偶者職場結婚3歳上
主な仕事八幡労組結成、共産党入党・離党、ユニオンショップ導入、鉄鋼労連書記長、IMF等視察、金属労協(JC)議長
恩師・恩人入江富雄、徳重健太郎
人脈田中久、原田鼎、岩井章、佐々木更三、斎藤安正、千葉利雄、永野重雄、稲山嘉寛、斎藤英四郎、塩路一郎、樫山利文、土居山義
備考兄早苗:民社党代議士
論評

大正13年4月23日(1924-2012)山口県生まれ、昭和時代後期の労働運動家。昭和14年八幡製鉄に入社し,29年労組書記長。鉄鋼労連(現・基幹労連)の書記長をへて43年委員長,53年会長となる。IMF・JC(国際金属労連日本協議会)の結成につとめ,総評内の右派として労働戦線統一をすすめた。

1.二・七スト(私の処女演説)
昭和22年(1947)の二・七ストは、はじめ賃上げ、物価鎮静、時間短縮などを要求する経済闘争であったが、共産党主導で、大政治闘争に変質していた。この日の前日、午後1時、八幡本事務所前には1万2千人の労働者が赤旗を先頭に参集した。あたりは前夜からの雪で一面銀世界。雪を蹴散らし四列縦隊のデモ隊は、ジグザグデモを繰り返し、まるで革命前夜のような雰囲気である。私は防空壕の入り口の上につくった演壇に立ち、アジ演説をぶった。こぶしを振り上げスト突入を叫ぶと、割れんばかりの拍手と、「団結がんばろう」の声が返ってくる。私は感動した。これが私の処女演説だった。

2.IMF(国際金属労連)加盟
昭和36年(1961)にIMFのローマ大会から帰国した私は、「日本にも加盟組織を作ろう」と決心した。今でこそ、日本の労働運動は国際舞台にも登場するようになったが、当時は”鎖国“状態も同然であった。戦後すぐにILO(国際労働機関)に復帰はしていたが、日本の労働運動の分裂をそのまま持ち込んでいた。
 それを是正するため、昭和37年に鉄鋼労連、電気労連、造船労連、全機金、全金同盟、全国自動車、自動車労連などの有志で、非公式な懇談会を持った。そして翌38年「IMF日本協議会結成準備会」にこぎつけ、翌39年東京オリンピック年の5月16日、神宮外苑の日本青年館でIMF・JC(国際金属労連日本協議会=当時、現在は金属労協)結成大会が開かれた。参加は合計5単産13組合、組合員数で70万人にのぼる一大組織の結成であった。IMF本部からはグランデル書記長らが出席してくれた。

3.IMF加盟の成果
この加盟は、鉄鋼労連の運動の運動を大きく転換させるために、重大な意味を持っていた。これを機会に自由主義諸国労組との連携がとれるようになり、また、国内的にも、造船、自動車、電機など日本の代表的な輸出産業労組と手をつなぎ、金属産業労組としての力量を大いに高めることになったのである。
 八幡労組で培ってきた労働組合主義の運動を鉄鋼労連の運動にする、それにはJC加盟により、欧米諸国労組からの良さを学びとる。つまり、内と外から、鉄鋼労連の体質改善を促すというのが、私の考えだ。「内」からの大いなる転換の芽は、すぐに出始めた。昭和42年(1967)夏、東京・神宮外苑の日本青年館で開いた第37回定期大会は、その意味で重要であった。この大会で書記長の私は、①「国際連帯の窓」に限定したIMF・JCから、窓口論を撤廃し、漸進的活動体へ移行する、②革新政党との協力体制は「社会党中心」から「共産党を除く野党各党」と協力体制をむすぶ・・などを1968年度運動方針案として提案した。

4.TOPとの「賃上げ交渉」舞台裏
私に「日本の賃金を決める男」という”名誉“ある形容詞をつけてくれたのは、新聞記者諸氏である。いわずと知れたことであるが、私が賃上げを決めるわけでは決してない。
 稲山嘉寛さんや斎藤英四郎・新日鉄社長と会ったりするのは、全て昼、それも稲山さんや斎藤さんの部屋でしか会わないことにしている。こういう時は、禅問答のように、考えを述べ合うだけである。具体的な金額で合意するようなことは絶対にない。考え方というのは、その時点で、言われているような世間相場(たいがい事前に新聞が書いている)が、高いとか低いとかを言うことである。最終的な賃上げ額は、各社の労組担当重役の間で決められる。それもきっちりした数字ではない。「もう千円札一枚」「百円玉2つ」という話がよく流れるが、デマである。

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