掲載時肩書 | 日清食品会長 |
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掲載期間 | 2001/09/01〜2001/09/30 |
出身地 | 台湾 |
生年月日 | 1910/03/05 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 91 歳 |
最終学歴 | 立命館大学 |
学歴その他 | |
入社 | 図書館 司書 |
配偶者 | 井上中将紹介娘 |
主な仕事 | 塩づくり、国民栄養化学研究所、脱税容疑、日清食品、チキンラーメン、海外進出、カップヌードル、百福記念賞、世界ラーメン協会、 |
恩師・恩人 | 井上元陸軍中将、久原房之助 |
人脈 | 田中龍夫、佐藤栄作、藤野忠次郎、中内功、鈴木三郎助 |
備考 | 食足世平、無一文の繰り返し人生、 |
1910年(明治43年)3月5日 – 2007年(平成19年)1月5日)は台湾生まれ。実業家。1948年(昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)日本即席食品工業協会会長、(財)安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。
1.チキンラーメンの美味しさの秘密
即席めんのおいしさの秘密が、実はこの油熱乾燥にあることをご存知ない方が多い。パンにはバターが合うように、穀物と油分は大変相性がいい。即席めんも油で揚げることで、独特の香ばしさが生まれたのである。街のラーメンと一線を画すのは、まさにこの点である。どちらがおいしいという問題ではない。それらは違う食べ物だと、私自身は思っている。
スープの味をチキンに決めたのは、チョッとしたエピソードがある。当時、裏庭の研究小屋横でニワトリを飼っていて、時々料理をしては食卓に上がらせていた。ある時、調理中にぐったりしていたニワトリが突然暴れ出した。傍にいた息子の宏基がひどく驚いて、それからは肉はもちろん、好物だったチキンライスまで口にしなくなった。ところがある日、家内の母がトリガラでとったスープでラーメンを作ったら、息子は喜んで食べたのである。その時、即席めんのスープをチキン味にするアイデァが浮かんだ。その後、海外に進出した折り、ヒンズー教徒は牛を食べない。」イスラム教は豚を食べないという、各国の宗教的禁忌にぶつかった。しかし、チキンを食べない国は、世界どこにもなかったのである。
2.チキンラーメンの流行ぶり
これを発売した1958年(昭和33)、神戸・三宮に中内功さんが「主婦の店ダイエー」をオープンされ、新しい欧米型流通システムの先駆けとなった。即席めんなどの加工食品を大量販売するルートが開かれたのである。そのころのダイエーの特売商品はチキンラーメンと卵だった。
第二はテレビの登場である。民放のテレビ放送が始まったのは53年。街頭テレビにたくさんの人々が群がっていた。私は早速テレビ・コマーシャルという新しい宣伝方法を採用した。「イガグリくん」「ビーバーちゃん」「地上最大のクイズ」「ヤングおー!おー!」など、明るく健康的な番組を提供した。日清食品は期せずして、テレビの草創期に生まれ、テレビと共に成長した。
第三に、高度成長である。時代は岩戸景気に入り、池田首相が所得倍増論を打ち出した。人生は生活を謳歌するのに忙しく、食事にも簡便性を求めるようになった。
日清食品の売り上げは順調に伸びて、創業5年目で43億円に達した。経営の基盤は固まったと思い、63年の10月、東京、大阪両取引所の第二部に上場した。
3.カップヌードルの突破口
1971年(昭和46)9月、自信をもって発売したカップヌードルだったが、スーパーや小売店の店頭には並ばなかった。「価格が高い」「立ったままで食べる習慣がない」などの理由からだった。私は若手の営業社員にチームを組ませ、食品ルート以外への販売を指示した。彼らは百貨店、遊園地、鉄道協会(KIOSK)、官公庁、警察、消防署、自衛隊からマージャン店、パチンコ店、旅館まで回った。
そんなルートしか当てにできないのでは、この商品は危ないという声が社内に高まった。私は、いい商品は必ず世の中が気が付く、それまでの辛抱だと社員を励ました。
発売した年の11月、銀座三越前の歩行者天国で試食販売をした。私は週末になると東京に出かけて、販売に立ち会った。長髪、ジーンズ、ミニスカート姿の若者たちは最初は戸惑っていたが、一人二人と食べ出すと、たちまち人だかりになった。自動販売機によるお湯とセット販売を始めると徐々に評判が出た。
しかし72年2月の連合赤軍による浅間山荘事件が起きた。テレビの現場中継を見ながら、あっと息をのんだのを覚えている。雪の中で山荘を包囲する機動隊員が湯気の上がるカップヌードルを食べているのだ。しかも、それが繰り返し画面に大写しされた。当時、カップヌードルが納入されていたのは警視庁の機動隊だけだった。他の県警や報道陣から、すぐ送ってくれという電話が直接本社に入ってきた。それがまた新聞に大きく報道された。2月28日のNHKは10時間20分にわたって中継し、犯人逮捕を挟む午後6時から7時の視聴率は66・5%に達した。カップヌードルは火がついたように売れだし、生産が追い付かなくなった。
あんどう ももふく 安藤 百福 | |
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1930年頃 | |
生誕 | 呉 百福(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク) 1910年3月5日 日本統治下台湾 嘉義庁東石郡朴子街 (現:嘉義県朴子市) |
死没 | 2007年1月5日(96歳没) 日本 大阪府池田市 |
墓地 | 九品寺[1] |
国籍 | 日本(1910 - 1945)→ 中華民国(1945 - 1966)→ 日本(1966 - 2007)[2]) |
出身校 | 立命館大学専門部経済学科(二部) |
職業 | 実業家 |
著名な実績 | 日清食品創業者 カップ麺開発者 |
配偶者 | 安藤仁子(妻) |
子供 | 安藤宏寿(長男) 安藤宏基(次男) |
親 | 父: 呉獅玉(呉阿獅) 母: 呉千緑 |
安藤 百福(あんどう ももふく、1910年〈明治43年〉3月5日 - 2007年〈平成19年〉1月5日)は、日本の実業家。日清食品(株)創業者。インスタントラーメン「チキンラーメン」、カップ麺「カップヌードル」の開発者として知られる。
日本統治時代の台湾出身で、出生名は呉 百福(ご ひゃくふく、ゴー・ペクホク)。台湾本島人であるため、戦後は中華民国籍になり、1966年(昭和41年)に日本国籍を再取得(帰化)した。
1948年(昭和23年)に(株)中交総社(後の日清食品)を設立し[3]、日清食品の代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)日本即席食品工業協会会長、(財)安藤スポーツ・食文化振興財団理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長などを務めた。池田市の名誉市民。位階・勲等は正四位勲二等。