掲載時肩書 | 衆議院副議長 |
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掲載期間 | 1985/01/29〜1985/02/28 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1908/02/11 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 京都大学 |
学歴その他 | 宇都宮 高等農林 |
入社 | (財)協調会(現・中労委) |
配偶者 | 先妻死・医師娘と再婚 |
主な仕事 | 内閣調査局、留置(手錠・編笠)4年、企画院事件、硫安肥料組合、左派議員、アジア社会党会議、成田*江田 |
恩師・恩人 | 川添先生(小)、橋本伝佐ェ門教授、海野普吉(弁) |
人脈 | 根本竜太郎・中川一郎(宇農)、和田博雄、稲葉秀三、吉田茂(協調会)、東畑精一、浅沼稲次郎、曽根益、成田知己 |
備考 | 吉田茂(財団・協調会常務)吉田総理と同姓同名でびっくり |
1908年2月11日 – 1989年12月14日)は静岡県生まれ。政治家。日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任した。委員長に就任した勝間田は、委員長自ら市民と対話する総対話運動を行うが、1968年の参院選では、社会党は獲得議席が30議席を割る敗北を喫し、勝間田は責任をとってわずか1年で委員長辞任を余儀なくされた(後任には自身と同じ当選同期の成田知巳が就任)。勝間田は党内では理論家として知られており、社会主義理論委員会事務局長として、「日本における社会主義への道」の策定に尽力している。その後、プロレタリア独裁を肯定するなど教条主義的な言動が目立ったが、1978年に社会主義理論センター初代所長に就任すると、今度は「日本における社会主義への道」の見直しに着手するなど、党の方針によって、彼の理論は二転三転した。
1.内閣調査局
昭和10年(1935)、私は内閣調査局の吉田茂長官(吉田茂首相と同姓同名)の勧めで調査局の専門委員になった。ここは経済不況対策を研究、審議する役割もさることながら、満州事変の拡大と軍部の政治への介入に伴って、次第に準戦時体制下の動員機関的性格を帯びるようになった。調査局の中にも陸、海軍から将官級や佐官級の調査官が多数派遣されていて、これらの諸君の発言は相当の威力を持っていた。
時局の重大化とともに調査局はやがて、資源局と合併し、企画庁に改組(12年5月)され、更に企画院に拡大強化(12年10月)されて、文字通り、総動員法の下における戦時動員機関となった。物資動員計画は重要なすべての物資と資金と労働力を戦争目的に集中して動員する計画を立てることであるから、日本の経済力のすべてを把握できる。石油の備蓄がいくらあり、鉄はいくら生産され、食糧はどのくらい倉庫に貯蔵されているか、全てを知ることができた。
2.牢獄と温情
昭和16年(1941)4月8日に企画院事件で逮捕され、昭和18年4月1日に釈放、昭和20年9月に無罪判決となったが、先輩諸氏の深い恩義に支えられて、戦後ようやく正常な生活に復帰することができた。だが、青い着物を着せられ、編み笠をかぶり、国賊と呼ばれながら、しかも既決囚に常にバカにされている生活は、もはや自由も誇りも希望もない全く絶望の世界だった。
しかし、弁護士の海野晋吉先生は、人も知る弁護士会の大物で、私の弁護を引き受けてくださり、徹底的に事件の真相解明に取り組んでくださった。それも全くの無報酬だった。また、弁護士から要求した証人に東大教授の東畑精一先生と吉田茂先生がいて、検事の私への過激な追及も、徹底して私を庇護してくださった。私はこのような友情や庇護を受けて、2年間にわたる独房生活と2年間の保護観察下の裁判で、何とかその苦悩に耐えられた。満4年経って、私たちは徳岡一男裁判長から無罪の判決を受けた。
3.社会党内での活動
私は社会党の綱領及び綱領的文書の作成に、政治活動の大半を傾けるほどのかかわり合いを持ってきた。いわば党の政治路線を決める重要な役割だけに、その任務は重かった。日本の社会主義は、日本の歴史と土壌に育つ「日本的」なものでなければならないと考えていた。その意味で、日本の条件を科学的に掘り下げることは大切だと思っている。しかし、それは原則を無視してよいということでは決してない。水は高いところから低いところへ流れる。これは原則であろう。しかし、その水の流れにも急流もあれば濁流もある。したがって私は原則を忘れず、同時に現実も尊重するという態度を、基本的な態度としてきたつもりである。
また、社会主義社会は未来の社会であって、経験も少なく、未知の分野も多い。それだけに、世界の経験で成功はもちろん、失敗からも謙虚に学ぶべきだと考えてきた。
勝間田 清一 かつまた せいいち | |
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生年月日 | 1908年2月11日 |
出生地 | 静岡県御殿場市 |
没年月日 | 1989年12月14日(81歳没) |
出身校 | 京都帝国大学農学部 |
前職 | 企画院官僚 |
所属政党 | (日本社会党→) (左派社会党→) 日本社会党 |
称号 | 正三位 勲一等旭日大綬章 衆議院永年在職議員 |
第55代 衆議院副議長 | |
在任期間 | 1983年12月26日 - 1986年6月2日 |
議長 | 福永健司 坂田道太 |
選挙区 | 静岡県第2区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1947年4月26日 - 1976年12月9日 1979年10月8日 - 1986年6月2日 |
第7代 日本社会党中央執行委員長 | |
在任期間 | 1967年8月19日 - 1968年10月4日 |
勝間田 清一(かつまた せいいち、1908年〈明治41年〉2月11日 - 1989年〈平成元年〉12月14日)は、日本の政治家。日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任した。企画院事件の左派官僚。正三位勲一等旭日大綬章。