掲載時肩書 | 脚本家 |
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掲載期間 | 2015/08/01〜2015/08/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1934/12/31 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 81 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | |
入社 | ニッポン放送 |
配偶者 | 劇団仲間 |
主な仕事 | 脚本、日活、NHK「勝海舟」、北海道移住、「北の国から」、富良野塾(26年、380人卒) |
恩師・恩人 | |
人脈 | 麻布(フランキー堺、小沢昭一、中谷昇)、水の江ターキー、北島三郎、八千草薫、大江健三郎(東大同)、勝新太郎、田中邦衛 |
備考 | 両親クリスチャン、 |
この「履歴書」に登場した映画監督、脚本家は衣笠貞之助、木下恵介、市川崑、山田洋次、今村昌平、篠田正浩、新藤兼人と倉本聰の8人である。氏は主にテレビ番組で多大の業績を残した。
1.海抜ゼロから考える
これは私のモットーだ。富士山の五合目から頂上に登っても本当の登山ではない。一合目からでもだめ。海抜ゼロの駿河湾から歩き始めて頂上を目指すのが本当の富士登山だと思っている。
僕だって海抜ゼロから山に登ったことはない。だが、物事を考えるときに五合目を常識にしてはいけないと自戒している。物事には「そもそも」という根本がある。そこを省いて五合目を常識にしてしまうのが僕には怖い。
2.渥美清さんが「あんたは偉い」
1959年4月1日、ニッポン放送に24歳で入社した。制作部に配属されてアシスタントディレクターとしてドラマやコント、「これからの中小企業」などの番組もつくった。6本ぐらい同時に受け持つ。会社に内緒でテレビの脚本を書いていた。夜十時に会社の仕事を終えて家に帰って午前3時ごろまで脚本を書く。睡眠時間は2,3時間で疲労困憊。とうとう大失敗。
「山谷、明日からのテープが出ていないぞ」。ある日の夕方、運行デスクに言われた。探したが、ほんとにない。平日の朝6時45分に始まる5分間の番組「天下晴れて」の録音テープだ。渥美清さんと水谷良重(現八重子)さんが夫婦役。日常茶飯のあれこれ軽妙な掛け合いでさばく人気番組だった。売出し中の二人だからスケジュール合間の纏め録音だ。
当時オープンリールのテープは高価で放送を終えると消して再利用する。未放送分を誤って消去したらしい。大急ぎで録り直すしか手はない。渥美さんは真夜中に来られるというが、水谷さんはヨーロッパ旅行中で万事休す。「帰っちゃおう。クビだな」。夜7時、フラフラと会社を出て有楽町の喫茶店に入った。家に帰る勇気はない。夜中になっても、いい考えは浮かばない。灰皿もいっぱいだ。そのとき、天啓が閃いた。
消し残した放送済みのテープから水谷さんの言葉を抜き出す。「ばかねぇ」とか「それでどうしたの?」なんていうセリフを拾い、それに合うセリフを新しく作って渥美さんに新たに吹き込んでもらうのだ。テープから短い言葉を抜き出す作業は時間がかかったけれど、何とかそれに合うセリフを作った。スタジオに飛び込んできた渥美さんが巧みに合わせてくれて放送時間直前に6本完成した。渥美さんに「あんたは偉い」と褒められた。僕も「俺は天才だ!」と自画自賛した。
3.部長命令「倉本聰に会え!」
1963年4月に日本テレビで始まった「現代っ子」は流行語の現代っ子に触発されて企画を持ち込み、脚本もメーンで書いた。月曜夜7時からの30分番組だ。交通事故で父親を失った母子家庭の3人の子どもが逞しく生きる姿を描いた異色のホームドラマ。視聴率は30%を超えた。中山千夏が主演した。
そんなある日、部長に呼ばれた。「君はベテランの脚本家ばかり使うけど、若手も起用したらどうだ」と言う。「テレビで倉本聰っていうのが目立ってきた。会って来い」と命ぜられた。「ついに来たな」と動揺したが、「分かりました」と応じて喫茶店で時間を潰すと、会社に戻って「たいした奴じゃありませんでした」と報告した。ペンネーム「倉本聰」を使った僕が会社にバレるのも時間の問題だった。
4.脚本家の手本
1964年から東映映画「くの一忍法」の女忍者ものの脚本を多く書き、65年~67年は日活で「北の街」「涙くんさよなら」「おゆきさん」「帰ってきた狼」「北国の旅情」など。歌謡映画がほとんど。舟木一夫の「学園広場」、西郷輝彦の「星のフラメンコ」などだった。
今は修業の身だ。優れた脚本を読み、ノートにとって分析した。僕の神様は橋本忍さん。黒澤明監督の映画のシナリオは傑作ぞろい。小津安二郎作品を数多く書いた野田高梧さんの台詞術、久保栄さんの脚本リアリズムにもしびれた。水木洋子さんのシナリオも教科書にした。水木さん脚本、今井正監督の「また逢う日まで」はつい先日ビデオで見た。20回を超えただろう。脚本も擦り減るぐらい読んだ。
くらもと そう 倉本 聰 | |
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プロフィール | |
本名 | 山谷 馨(やまや かおる)[1] |
誕生日 | 1934年12月31日(89歳)[1] |
出身地 | 日本・東京都渋谷区 |
主な作品 | |
テレビドラマ | 『前略おふくろ様』シリーズ 『大都会 闘いの日々』 『さよならお竜さん』 『北の国から』 『昨日、悲別で』 『ライスカレー』 『火の用心』 『優しい時間』 『風のガーデン』 『やすらぎの郷』 |
映画 | 『駅 STATION』 |
受賞 | |
受賞歴参照 |
倉本 聰(くらもと そう、1934年〈昭和9年〉12月31日[1][注 1] - )は、日本の脚本家、劇作家、演出家。本名は、山谷 馨(やまや かおる)[1]。東京都渋谷区出身。妻は女優の平木久子(演劇集団 円所属)。父は俳人、日新書院取締役の山谷太郎。祖父は医学博士、日新医学社社長の山谷徳治郎。大伯父は衆議院議員の山谷虎三。
東京大学文学部美学科を卒業後、ニッポン放送を経てフリー。おもにテレビドラマの脚本家として活躍。東京から北海道へと居を移し、『前略おふくろ様』『北の国から』など多くのヒット作を生み出した。主宰した「富良野塾」にて26年間にわたり後進を指導。65歳で紫綬褒章、75歳で旭日小綬章を受章した。1977年(昭和52年)より富良野市に在住。
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