掲載時肩書 | 三洋電機社長 |
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掲載期間 | 1963/03/31〜1963/04/26 |
出身地 | 兵庫県淡路 |
生年月日 | 1902/12/28 |
掲載回数 | 27 回 |
執筆時年齢 | 61 歳 |
最終学歴 | 専門学校 |
学歴その他 | 職工学校夜学 |
入社 | 帆掛舟(叔父)乗組員 |
配偶者 | 亀山(扶桑電機社長)妹 |
主な仕事 | 松下電機製作所、専務、三洋電機製作所、労働問題、ガーナ協会会長、胆石155個摘出 |
恩師・恩人 | 松下幸之助(次姉うめ妻)、鈴木剛(住銀) |
人脈 | 亀山武雄(扶桑電機:4姉妻)、春海隆雄、岩佐三郎、小暮実千代 |
備考 | 実家・高田屋嘉兵衛近く、三洋(太平洋、大西洋、インド洋) |
1902年12月28日 – 1969年7月16日)は、日本の実業家。三洋電機株式会社の創業者。松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)の創業メンバーで、専務取締役を務めた。1947年、43歳の時、守口市に三洋電機製作所を設立し、社長に就任する。松下幸之助からは餞として兵庫県加西郡北条町(現・加西市)にある北条工場と、自転車用発電ランプ「ナショナル発電ランプ」の製造権を譲られた。1962年に井植が校長を務め、関西企業の実業家が集まり社長学・経営学を学び情報を交換し合う「井植学校」が生まれた。2か月に1回開かれ、経営に対する考え方人生哲学を披露するのが目的。そのメンバーには石橋信夫(大和ハウス工業創業者)、中内㓛(ダイエー創業者)、佐治敬三(サントリー2代目社長)、山田稔(ダイキン工業3代目社長)、森下泰(森下仁丹2代目社長)などがいる。
1.母の訓え
母こまつは、私のすべてであり唯一かけがえのない人であった。戦後、私が事業を始めて間もなく、資金源と頼む工場が丸焼けになったことがある。所用で上京していた私が、急ぎ焼け跡に駆け付けた時、こともあろうにニヤニヤ笑いながら私の肩を叩いたのが母であった。「トシオ、そう気ィ落とすことないぜ。人生には焼け太りちゅうことあるやおまへんか。ナ、しっかりやんなはれ」母の笑顔はどんな大金を積んでくれたよりも、うれしく、私を励ました。
「どんなときでも、相手の立場をまず考えよう。相手の便利、経済、楽しみ、喜び、そして繁栄が第一だ。それを自分の事業に結びつけてこそ自分の幸福が得られるのだ」という私のモノの見方、考え方、行い方は、ことごとくこの母から学んだと思う。「この母のために、早く事業を成功させるのだ」と、焼け跡で私は固く誓ったのであった。
2.戦後の再出発
昭和21年(1946)12月、松下電器を辞した私は守口市本町に6畳ほどの部屋を借り、ここを事務所とした。私はとりあえず資金作りから始めなければならなかった。その第一着手として進駐軍への電気スタンドを売り込んだ。まず堺の造船所に残っていたケヤキ材の切れ端、廃品の薬きょう、木製飛行機に張る絹などの払い下げを受け、柱、台、部品、シェードなどを作った。民需用には、ハウス・ライトを作った。そのころは停電続きで、世相そのままの暗い夜を送っていた人々から俗に「停電灯」と呼ばれて愛用され、いくら作っても足りないほどよく売れた。
私が新しく取り組んだ事業は、自転車の発電ランプであった。通勤、通学、商用と、街角でも農村でも、自転車は国民の足になっている。その自転車には灯りがいる。必ず多くの需要が起こってくると思った。
3.洗濯機から多角化へ
発電ランプはよく売れた。しかし一つの事業だけでは何かの問題が起これば会社の危機に陥る危険がある。そこでラジオ事業に進み、次は洗濯機へと多角化を進めた。せんたくの場合、主婦がタライで洗う時のエネルギー、時間のロス、肩の凝り、これらを賃金に換算すると五人家族の洗たく1回について280円もかかる。洗濯機では25円ですむ。洗濯機を使うことで、家庭経済はうるおい、しかも快適になるわけである。当時、ドイツのキール大学の調査によると、ドイツの農村では婦人が口紅を6人に1本しか持っていないのに、洗濯機は2軒に1台普及していたのであった。米国でも洗濯機は必需品のトップに挙げられていた。
それなら主婦に大歓迎されるだろうと思い、洗濯機の開発にとりかかった。手始めに私は、デパートに寄り、自分の家と工場長の奥さんたちに各一台ずつ洗濯機を送ってもらい、日曜日は朝から洗たくしてもらった。滋賀工場も本社の社長室も試作品を置いて研究してもらったが、いつも部屋は水浸しであった。