石橋信夫 いしばし のぶお

建設・不動産

掲載時肩書大和ハウス会長
掲載期間1991/10/01〜1991/10/31
出身地奈良県
生年月日1921/09/09
掲載回数30 回
執筆時年齢70 歳
最終学歴
専門学校
学歴その他吉野林業学校
入社農林省 満州校
配偶者戦友妹
主な仕事満州森林開発、シベリア抑留、収容所 隊長、大和ハウス、ミゼットバス、大和団地、ネオポリス、海外進出、
恩師・恩人水上哲次軍医、大野看護婦、永野重雄、井植歳男
人脈小林権三郎、中内功、海口守三、中坊公平、瀬川美能留、安藤豊禄、日比憲一、竹内寿平、赤坂武、山野上重嘉
備考釣り、土倉庄三郎翁(吉野植林貢献)
論評

1921年9月9日 – 2003年2月21日)は奈良県生まれ。実業家。大和ハウス工業の創業者で、元社長・会長。大和ハウス工業元社長で、子会社・大和情報サービス代表取締役会長・ビルド・ア・ベア ワークショップ代表取締役社長を務める石橋伸康は子息。

1.師団将校ら960人を前に講義
昭和17年〈1942〉12月、日本を離れて24人の見習士官仲間と一緒に満州(中国東北部)黒竜江省・孫呉に到着した。初陣はチチハル郊外、森林湿地突破演習という名目だったが、演習も実践もない。敵はどこでも出没する。私は兵60名をもらって第3小隊を率いることになったが、上官の無謀な命令に反したところ、猛烈なビンタを10発見舞われた。ビンタから1か月後、名誉回復の機会が来た。林業学校出身で満州の営林局に勤めた経験から森林湿地帯の戦闘について1週間後に講義をしろという。師団長命令だ。
 さて当日。師団長に20人の連隊長が最前列に並び、総数960人もいる。「孫氏の兵法に『森林は兵をのむ』とあります」と切り出した。「密林に入ったら大事なのは方位の選定。概して枝は南の方向に張っている。森林地帯には湿地帯があり、流れていれば通過可能だが、流れていない湿地は人馬もろとも吸い込まれるのでよほど慎重に」などと図を示しながら2時間半にわたって話した。つい力が入って途中でムチを折ってしまった。
 講演後、参謀長の講評は「極めて優秀」。翌日、連隊集会所で「昨日の講習は当連隊が明治38年に編成されて以来、初めて『極めて優秀』との講評を受けた」と連隊長に褒められた。大いに面目を施した。

2.パイプ建築の大和ハウス工業設立
ジェーン台風が近畿地方を襲ったのは昭和25年(1950)9月3日だ。瞬間最大風速43.2mを記録、死者・行方不明は500人を超えた。2万戸近い家屋が倒壊し、吉野川や紀ノ川など各地の河川が氾濫した。山林の被害状況を調べると、多くの木が倒れ家もまた無残な姿をさらしていた。木造家屋が火に弱いのは仕方ないが、実は風にも地震にも脆い。日本の民家は重い瓦を屋根に乗せ、一見安定しているように見えるが、それがひとたび強風が吹くとその重さに耐えられない。
 山を下りると水田に出た。風に稲穂が揺れている。何気なしに通り過ぎようとしてふと気がついた。あれだけ家が壊れているのに稲は折れていない。見渡すと家の周りの竹林も風にそよいでいる。どうして稲や竹はしなっても倒れないのか、私はうなった。どちらも共通しているのは丸く、中が空洞になっている点だ。丸太は空洞ではない。それならパイプだ。鉄パイプで家をつくったらいいとひらめいた。
 昭和30年〈1955〉4月5日、大和ハウス工業を設立した。社長は兄・義一郎、私が常務で実際の責任者になった。資本金は300万円、従業員は18人しかいない家族主体のちっぽけな会社だった。

3.3時間で建つ11万円の家「ミゼットハウス」
私は仕事の合間によく釣りに出かける。1959年に猪名川で鮎釣りをしていた際、日暮れが迫っているのに子供が帰宅しないのを見かけた。早く帰宅するように声を掛けると、子供達は帰っても勉強部屋も子供部屋も無いと答えた。「自分の部屋が欲しいなぁ」、その一言が耳に残った。私は戦後の人口増に見合った住宅が普及していないと考え、社員に「低価格の独立した勉強部屋のようなものを商品化できないか」と技術の研究と開発を命じた。そのときに出した条件は、坪4万円以下で、3時間もあればできることだった。そして昭和34年(1959)10月、開発・発売されたのが「ミゼットハウス」である。
ミゼットは「極小型」の意味だ6畳で11万8千円、4畳半で10万8千円の2タイプある。コンクリートブロックを下に敷いて土台とし、後は部材を持ち込んで組み立てるだけ。パイプではなく軽量形鋼を使った。4人でかかればわずか3時間で出来上がる。午前と午後、一日で2棟が建つというわけだ。発売と同時に電話が鳴り響いた。「3時間で建つ11万円の家」と話題となり、注文が殺到したのだった。

4.住宅事業の海外進出への調査ノウハウ
海外で事業を始めたのは昭和36年(1961)のシンガポールが第1号、工場建設が主体で、以後、タイ、フィリピンで住宅や学校を手掛けていった。印象に残るのはブラジルでのことだ。合弁で新会社を設立、30数地区で約2万戸の住宅を建てた。次は米国に上陸し、サンノゼ、ダラスなど合わせて1万戸を分譲した。
 いくら冒険心旺盛な私でも初めから失敗と分かっている事業には手を出さない。土地選定から買収までの私なりのノウハウがある。目星をつけた土地があったら手始めにガス会社に行く。配管しているところ、これから供給している土地を教えてもらう。翌日は水道会社だ。敷設してあるところ、将来計画を聞く。3日目、電力会社で送電状況、長期計画、料金体系を調べる。4日目は商工会議所で民間の経済動向、5日目は市役所で住宅を中心とした都市計画や下水の現況を説明してもらう。
 大事なのは現地を目で確かめることと、必ず土地の値段をしっかり聞き出すことだ。これだけの情報を集めたうえで、6日目に不動産業者を呼ぶ。3つ、4つ、地域を指定し、所有者が売ってくれるかどうかを当たって欲しいと頼む。その際、このくらいの価格とはっきりという。不動産業者もたいてい、「日本からいきなり来てどうしてそんなに詳しい情報を持っているんだ。値段もなかなかいい線をいっている」と驚くのだった。

石橋 信夫(いしばし のぶお、1921年9月9日 - 2003年2月21日)は、日本実業家大和ハウス工業の創業者で、元社長・会長。奈良県吉野郡川上村出身。

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