掲載時肩書 | 聯合紙器社長 |
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掲載期間 | 1959/06/28〜1959/07/17 |
出身地 | 兵庫県播州 |
生年月日 | 1881/08/10 |
掲載回数 | 20 回 |
執筆時年齢 | 77 歳 |
最終学歴 | 小学校 |
学歴その他 | 高等小学校 |
入社 | 座古清(奉公)保険代理店 |
配偶者 | 内妻、 正妻死、後妻 |
主な仕事 | 神戸>伊勢>横浜>東京>大阪>朝鮮>満州>香港、28業種 >東京、段ボール会社設立、聯合紙器(レンゴー) |
恩師・恩人 | 阪大佐太郎(人買い親方)、池田良栄(出資者)、東芝 |
人脈 | 荒川大尉・石郷岡大尉・一志茂敬(出資者)、波乱万丈、芸者遍歴 |
備考 | 長谷川薫(井上貞治郎弟の次男) |
明治14年〈1881年〉8月16日 – 昭和38年〈1963年〉11月10日)は兵庫県生まれ。実業家。「段ボール」の実用新案を取得。大量生産と強固な段ボール箱の開発に成功し、聨合紙器(現社名・レンゴー)を設立した。「日本の段ボールの父」と評される。レンゴーが創業50周年を迎えた1959年には、『生涯の一本杉』という自叙伝を発刊するとともに、日本経済新聞社で「私の履歴書」を執筆。青少年時代の波瀾万丈の人生が読者を魅了したことから、同社の地元テレビ局である朝日放送が自叙伝に基づくテレビドラマ『流転』を半年間にわたって放送したところ、高い視聴率を記録した。翌1960年には、石浜恒夫が『流転』の小説版を発刊。この小説版に基づく舞台作品が中座で上演されたほか、松竹が実写映画を制作した。
1.人買い親方に必死の口説き
青雲の志しで満州に来たが、私が求めていた職はない。雑貨屋の番頭、炎天下の土木工事の監督、弁当売り、炭売り、うどん屋、牛肉の行商、あげくの果ては金鉱を見つけに満州奥地にまで放浪するありさまだった。しかしそれもうまく行かず宿代もたまり借金返済に行き詰まり、ついには自分の身柄を売りつけ西豪州の真珠採り人夫になろうとする。しかしこれは十人のうち半分は死ぬ「超重労働」であると聞く。びっくりして人買い主の親方・阪大佐太郎に、わらでもつかむ気で隣の部屋に入っていった。
「まっぴらごめんなさっておくんなさい。私は隣のものですが、いま非常に進退窮まっているんだが、はなはだぶしつけながら、私の体を質にとって内地へ連れて帰ってもらえないでしょうか。もし願えればあなたの人買い仕事も分かっていることだし、手助けでもしてご恩に報いることができると思っています。聞けば明日おたちのそうだが、ひとつ連れて帰ってくれませんか」
唐突の侵入者の言葉に相手は驚いた様子だが、こっちも必死だった。ぐいと相手の目を食い入るように睨んで私は返事を待った。さすがの悪党も脛に傷を持つ身、私の気迫に押されたのか、しばらく無言で私の顔をねめつけていたが、やがて「よろしい。お頼み通り引き受けよう」とあっさり承知してくれた。そして明治42年親方は60、70円ほどの私の宿賃を払い、横浜までの22円50銭の船賃を出してくれたのだった。
2.段ボール業の出発
明治42年(1909)、私は29歳。東京の片隅、目黒川のほとりの本照寺裏に20坪ばかりの平屋を月5円で借りた。池田良栄の仲介で荒川、石郷岡、一志の3人の出資者を得て、私が考えた通称「なまこ紙」を作るトラの子の機械を据え付けた。もっとも機械といっても、波型を刻んだチクワロール二本を、左右二本の木製の支柱に渡しただけのもので、ロールについたハンドルを回しながら、厚紙のボール紙をロールにかませると、しわが寄ったボール紙が出てくる仕組みになっている。
ところがやってみればなかなかうまく行かない。まず紙のしわ・・つまり段が左右不揃いで、出てくる紙が扇型になってしまう。これはロールの左右にかかる力を均等にすれば解決するのだが、これには台座にバネを置いたり、分銅を吊るしたり苦心した。一方、紙についての苦労も多かった。段をつけても風に当たると伸びてしまうのである。始めたのは夏だったが、こんなふうに苦労ばかり続けて2か月たった。
そして秋の気配も迫ったある日の昼前「できた!」見事に揃った製品ができ上ったのである。私は飛び上がって喜んだ。うっかりすると「こりゃこりゃ」と踊りそうだった。こんな見事な製品を人に見せるのは惜しいと思ったほどである。おげんさんと私は、3合で4銭の「やなぎかけ」を茶碗につぎ、ひえた焼芋を七輪であたため、それを肴に祝杯を挙げた。「できた、できたよォー」私はデタラメの節をつけ、茶碗を叩いて歌い出した。
こうして日本で初めて生まれた「なまこ紙」に製品名を付けるのも大変である。弾力紙、波型紙、しぼりボール、コールゲッテッド・ボードなどなど、いろいろ考えた末、私は最もゴロがいい“段ボール”に決めた。