掲載時肩書 | 日商会頭 |
---|---|
掲載期間 | 1989/03/01〜1989/03/31 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1916/08/21 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 学習院 |
入社 | 東芝 |
配偶者 | 久原房之 介娘 |
主な仕事 | 東急電鉄、東映、田園都市線、東亜航空 、東急ヒルトンホテル、東急百貨店,東急総合研究所、日本ファッション協会 |
恩師・恩人 | 石坂泰三、永野重雄 |
人脈 | 小坂徳三郎、曽根益、小林一三、唐沢俊樹、中曽根康弘、正力松太郎、小林中、瀬島龍三、水野成夫、大川博,宇佐美洵、小山五郎 |
備考 | 東大の野球部入学、ゴルフ部卒業(1番アイアン得意) |
1916年(大正5年)8月21日 – 1989年(平成元年)3月20日)は東京生まれ。実業家。東京急行電鉄社長・会長。日本商工会議所会頭。五島慶太の長男。死去するまで、グループ各社の会長もしくは相談役、京王帝都電鉄(現・京王電鉄)、小田急電鉄の取締役の他、松竹、歌舞伎座の取締役相談役なども歴任した。グループ経営の方向性に合わせ、航空事業(日本国内航空→東亜国内航空(後の日本エアシステム、現・日本航空))やホテル事業、リゾート開発等の拡大を図り、最盛期にはグループ会社400社、8万人の従業員を数えた。
1989年(平成元)3月1日から連載されていた五島昇氏の場合は、同月20日に亡くなられたため、翌日の21日「私の履歴書」の文中の末尾に、お断りとして「筆者五島昇氏は20日死去された。本稿は生前に用意されていたもので、遺稿として最終回まで掲載します」とありました。生前中に最終稿が出来上がっていれば、最終回まで掲載されることになる例でした。
1.父慶太の教育
父は大正9年〈1920〉官吏をやめ、電鉄事業に入った。私の小・中学校時代には事業に没頭して家にはほとんどおらず、月に一度か二度ぐらいしか顔を合わせなかった。父が代々木練兵場でヘタなゴルフの練習をする時、球拾いをさせられることはあったが、その時も口を利くことは滅多になかった。私がスポーツに熱中し始めたのも、父のいない寂しさを紛らわそうとしたためだった。
父から説教された覚えはまるでない。けんかっ早いことでも分かるように、私は子供ながらに激しい性格だった。その性格を見抜いていたのだろう。激しく叱ると私がどんな方向に行くか分からないと思って、殴ることはもちろん、説教さえしなかった。そこで叱られ役はもっぱら弟が引き受けていた。父は父なりに子供の性格を考えながら教育をしていたのだろう。
2.久原房之介氏の若き中曽根康弘氏評価
私の人生に大きな影響を与え、夢と熱い思いをかきたて続けてくれた集まりに『青年懇話会』がある。昭和21年〈1946〉に海軍の短現7期生が中心の集まりである。赤沢璋一氏(通産省→JETRO理事長)の声掛けで発足した。メンバーは中曽根康弘氏(香川県警務課長→首相)、中川幸次氏(日銀→野村総研社長)、桧垣徳太郎氏(農林省→郵政大臣)や、のちに宮澤喜一氏(前蔵相)などがいた。
『会合は毎月1回の割りで開いた。しかし開催費用が乏しい。そこで中曽根君と募金集めにいった。その時の寄付の最高額(5万円)は、のちに義父になる元政友会総裁の久原房之介氏だったが、ご自宅でお願いの話が終わって帰ろうとすると、「ちょっと」と久原氏は私を呼び止めた。「中曽根君は独り者か」「いえ、婚約しています」「なんとか別れさせられないか。ワシの娘を嫁にやりたい」「彼のどこがいいのですか」と尋ねると、「あの声がいい。政治家として大成する声だ」という。今から思い出すと久原氏の人を見る目の確かさに感服した。
3.石坂泰三さんは金屏風
昭和34年(1959)8月に父が亡くなり、私は43歳で事業を引き継いだ。まだ若く、経験も乏しい私が東急グループを引っ張って行くにはどうしても強力な後ろ盾「金屏風」が必要だった。それにふさわしい人物として真っ先に頭に浮かべたのは、父と東大同期の石坂泰三氏だった。石坂氏は当時、東芝の再建にメドをつけ経団連会長の座にあった。東急電鉄の相談役になっていただこうとお願いに行くと、「経団連会長として一企業の相談役になるわけにはいかない」とそっけない返事だった。
そこで複数の相談役を置いて、その一人になってもらおうと考えた。まず産経新聞社長の水野成夫氏にお願いした。水野氏には日本開発銀行初代総裁の小林中氏を口説いてもらった。この後でもう一度石坂氏に頼み込むと、「相談役というのは金屏風である。新郎新婦を引き立てるのが役目だから何もしないが、それでもいいか」と条件を付けてしぶしぶ引き受けて下さった。ところがこの金屏風は、時折後ろからゲンコツで私の頭をゴツンと殴った。東映問題で踏ん切りがつけられないときもそうであった。
4.財界は王道派と覇道派がある
私が財界活動に首を突っ込むようになったのは、昭和30年〈1955〉代に入ってからである。30年代初めに東急電鉄が文化放送の株式を譲り受けたのがきっかけで、文化放送の水野成夫社長との付き合いが始まったからである。
当時、財界には二つの行き方があった。王道派と覇道派の二つである。覇道派は政治家と頻繁に夜の会を持った。水野氏はこちらに属していた。この席では財界首脳人事はもちろん、政府系機関のトップ人事などが話し合われることもあったようだ。一方、石坂泰三、桜田武両氏をトップとする王道派は夜の会には一切出なかった。特に石坂氏は利権の絡むような財界活動のやり方を極度に嫌い、昼間、経団連会館や官邸で堂々と政治家と渡り合っていた。
石坂氏からはアラビア石油誕生の裏話を含め、いろいろな話を聞かせてもらった。私は石坂氏の王道派、水野氏の覇道派の両方と付きあっていたわけである。
5.瀬島龍三氏との付き合い
瀬島氏(伊藤忠商事副会長)と初めてお会いしたのは昭和52年(1977)である。知人が引き合わせてくれたのだが、直ちに意気投合し、以来、瀬島家とは家族ぐるみの付き合いを続けている。財界活動に引き込もうと、永野会頭にも話して56年(1981)、東商副会頭を引き受けていただいた。瀬島氏とは特に韓国との交渉で行動を共にすることが多かった。
54年10月、朴正煕大統領が暗殺されたあと、韓国の政財界の首脳は殆ど入れ替わり、永年培ってきたパイプがプッツリ切れてしまった。「早急に新しいパイプを作らなければ動きが取れなくなるぞ」と危機感を持った私たちは、根回しのために二人でこっそり韓国に渡ることにした。
別の航空便を使い、渡韓の日も変え、ソウルで合流した。55年5月の光州事件直後であり、不穏な空気が漂っていた。そこで出会ったのが、全斗煥、慮泰愚、権翊鉉の3氏である。陸軍士官学校11期の三羽ガラスと言われていた。それぞれ国軍保安司令官、首都警備司令官、議員連盟会長の要職にあり、光州事件の処理に追われていた。その合間を縫って別々に会っていただいた三氏に、これから韓国財界を背負って行くと思われる人物を紹介してもらおうと考えていた。この3氏が口をそろえて推薦したのは、浦項総合製鐵の朴泰俊社長だった。
そして3人への橋渡しをしてくださったのは、韓国の総合商社、三星物産の李秉喆会長だった。李氏はゴルフ好きで、37年にオープンした神奈川県・スリーハンドレッドクラブの最初からのメンバーだった。
6.太平洋の夢(環境保全の開発こそ)
太平洋にのめり込むようになったのは昭和28年からである。乗っていたハワイ行きの飛行機がたまたまエンジントラブルでグアムに留められた時、太平洋の島嶼(とうしょ)国の人たちとの話に興味を持った。彼らは、環境や自然に対し欧米先進国とは全く違う考えを持っていることを知ったからである。数年後、一度訪れたかったパラオ諸島にようやく渡ることができた。観光開発は欧米型の開発手法だと、優れた場所でもリゾート地にして三十年もたてば俗化して駄目になってしまう。もっと息の長い観光開発はできないかと頭を痛めていた時、フィジーのラツ・マラ首相に会う機会があった。彼は「ザ・パシフィック・ウェイ」という言い方で、環境保全を最優先しそれを守れる範囲でしか開発を認めないという考えを繰り返し説明した。我々とはかけ離れた価値観にショックを受けた。その後、マラ首相はマンゴ島を売ろうと考え打診してきた。約十三億円で買った。しかし、環境保全と観光開発という二律背反のやり方を調和させる手段はいまだに確立していない。おそらく今後20年もすればでてくるだろう。それまでは開発せずそのままにしておくつもりである。