二子山勝治 ふたごやま かつじ

スポーツ

掲載時肩書日本相撲協会理事長
掲載期間1988/02/01〜1988/02/29
出身地青森県
生年月日1928/03/16
掲載回数28 回
執筆時年齢60 歳
最終学歴
小学校
学歴その他
入社二所の関 (大ノ海)
配偶者洋裁娘
主な仕事双葉山引退、2年半で十両、銚子260本、息子4歳の死、土俵の鬼、柏鵬台頭引退
恩師・恩人羽黒山
人脈琴ケ浜、力道山(兄弟子)、栃錦(3歳上)、横綱(若乃花、隆の里)、大関(貴乃花、若島津)
備考北海道に 夜逃げ
論評

1928年(昭和3年)3月16日 – 2010年(平成22年)9月1日)は、青森県弘前市生まれ。第45代横綱。土俵の鬼と呼ばれた。戦後最軽量横綱である。引退後二子山部屋を創設し、弟である大関・初代貴ノ花(のち藤島→二子山)、横綱・2代若乃花(のち間垣)、横綱・隆の里(のち鳴戸)、大関・若嶋津(のち松ヶ根→二所ノ関)らを育てた。

1.猛けいこ
 二所ノ関部屋から初土俵の21年11月場所後に双葉山が引退。部屋には兄弟子に力道山、琴ケ浜がいた。
巡業に出れば朝2時ごろからけいこが始まった。時津風、高砂、二所ノ関と三部屋合同でやっていた時分は何しろ人数が多いから土俵の奪い合いとなった。一番土俵、二番土俵と先陣争いをするのである。夏場所は旅館について飯を食べたらもう相撲場に向かった。そして土俵のわきで寝た。夜露は体に毒だったが、けいこするためにはいたしかたなかった。質量ともに今とは雲泥の差のある時代だった。
 三段目全勝優勝のころ私は琴が浜と芳ノ里(当時神若)と3人で激しいけいこをした。うっちゃると兄弟子に引っぱたかれた。引いたりはたいたりは厳禁だった。この3人で人の3倍も4倍もけいこした。3時間ぶっ通しも珍しくなかった。荒い力道山の胸を借りて20~30分やると虫の息になった。

2.ハガネの筋肉
私の体は鍛えに鍛えてハガネのようになっていた。ぶつかりげいこのあと三番げいこをしてさらにぶつかりげいこをする。今では考えられない量だ。腕に注射をしても針が刺さらず曲がる。刺さったと思っても液が入っていかなかった。

3. 土俵の鬼
父親の死の翌年、長男4歳がちゃんこ鍋に落ち死ぬ。初七日、葬式も済ませたが、虚脱状態になってひたすら酒をあおった。体重は5キロも減ったが、酒ばかり飲んでいては仏も浮かばれまい。亡くなった息子のために本場所は絶対頑張ると誓った。その場所、息子の冥福を祈り胸に数珠をかけて勝負に臨んだ。悲運のどん底にありながら初日から12連勝と勝ち続ける私をマスコミは「土俵の鬼」と名付けた。しかしこのあと40度の高熱が続き、12勝2不戦敗1休で優勝を逃がした。

4.横綱全勝の千秋楽対決:(生涯戦績:栃18勝・若15勝)栃錦3年先輩
栃関は前場所14勝1敗で優勝だった。今場所は全勝同士の横綱二人が、全勝を賭けて相撲史上初めて、ぶつかることになった。その前夜眠れないので、若い衆を連れて映画を見に行った。少し暗がりに目が慣れてきたら、前の方にお相撲さんがいるのが判った。だれだろうなぁ、と目を凝らすとなんと栃関ではないか。もう映画どころではなく顔を合わすのが嫌で終わったとたんパーツと飛び出した。やっぱり栃関も私と同じで勝負のことは忘れたいのだなと思った。当時は部屋が違う力士には敵意というより殺意さえ抱いていた。栃関とやる時は「殺してやろう」と思って土俵に上がった。熱戦2分半、寄り切りで勝ったが、この優勝対決の翌場所3日目に栃錦(春日野清隆)関は引退を表明された。

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