掲載時肩書 | 日本将棋連盟会長 |
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掲載期間 | 2000/05/01〜2000/05/31 |
出身地 | 北海道 |
生年月日 | 1932/01/02 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 68 歳 |
最終学歴 | 中学校 |
学歴その他 | |
入社 | 奨励会 を8か月間で了、 |
配偶者 | 恋愛6歳下バイオリン趣味 |
主な仕事 | 勉強(上段手合い、記録係)、奨励会8か月〈24勝9敗)、名人戦(大山)、理事、王将、棋聖3期、連盟会長、詰将棋 |
恩師・恩人 | 白土誠太郎、渡辺東一師匠 |
人脈 | 藤沢桓夫、升田3冠、大山名人、加藤一二三(2年下)、中原誠、羽生善生入門、内藤国雄、五味康祐、山口瞳 |
備考 | 盤寿81歳を希望、父:網元 |
1932年(昭和7年)1月2日 – 2016年(平成28年)11月1日)は北海道生まれ。将棋棋士。渡辺東一名誉九段門下で棋士番号は57。タイトル獲得通算5期。1990年引退。1989年から2002年にかけて日本将棋連盟会長を務めた。弟子に羽生善治がいる。棋風は居飛車の攻め将棋。相掛かりガッチャン銀戦法は二上定跡として有名である。守りが薄い状態で攻め込むため、展開の早い勝負になりやすく、終盤の力で勝負した。木村14世名人は二上のスピードの早い将棋を評価した。上の世代の棋士は対局中につぶやいたり、歌を歌う等、相手を惑わせることを日常的に行ったが、二上は盤上での勝負にこだわり盤外戦を行わなかった。二上だけでなく戦後の棋士達はそうした行為をしない傾向があった。
1.升田幸三王将
私が升田さんに負かされる時は、暴風雨に巻き込まれたような感じである。そういう負かされ方は、後にも先にも升田さんしかいなかった。対局中に、よく浪花節を目の前でうなられたものである。先輩といえ、非礼だとカッとなる向きもあったが、私は気にならない。勝負師としては案外正直な人で、浪花節が出るのは決まって形勢が順調な時、不利だと黙りこくってしまうのがクセでもあった。だから途中で浪花節が止むと、ハハァ升田さん、自分の方が悪いと見ているな、こちらにわかるのである。
勝負を離れると、升田さんとはよく酒席を共にした。内弟子時代から日本麦酒(現サッポロビール)将棋部に指導に行っていた関係で、私も自然に酒に強くなっていた。升田さんは豪快な人柄に見られがちだったが、将棋以外ではいささか小心と思えるほど気遣いの細やかな人だった。いろいろ褒め揚げ、こちらが気持ちよく吞んでいるか気配りしてくれるのである。
2.大山康晴名人
大山さんの盤外戦術の巧みさは、すでによく知られている。立会人らを親しい人々で固め、対戦相手を自分のペースに巻き込んだり、旺盛な食欲を見せつけて戦意をそいだりといったことである。実際、ジンギスカンの席が一緒になり、私が手を出す間もなくほとんど食べられてしまったことがある。
鼻歌で「たつやたちまち撃滅の・・・」と軍歌を歌われるのも、嫌な気がしたものである。「達也」に掛けていることはピンとくる。通常ならば児戯に等しいと笑う余裕も出てくるが、対局中の高ぶっている状態では神経に触った。私が長考していると、大山さんがじっと私の視線の行方を調べていることに、ある時気付いた。私は一つの変化を深く突っ込んで考えるたちなのである。次の対局で、今度は大山さんの視線を意識して追ってみた。すると盤全体をくるくる見回し、一か所を5秒間とじっとしていない。大山将棋は広く読む。
3.天才・加藤一二三さん
100人を超す棋士と対局してきた中で、天才と言い切れる棋士は加藤一二三九段ただ一人である。読みが広く深く、かつ正確であった。対局中は誰もが神経過敏になるが、加藤さんはとりわけ神経質な方である。滝の音がうるさいと旅館に止めさせたり、都内の車が気になるとして対局前日に急きょ宿泊場所を変えたりしたことは、知る人ぞ知るである。
クセも多い。取った駒をすぐ駒台に置かず、手に持ったり、激しい咳払いをしたりする。相手に勝つことに没頭してしまっているのだろう。相手を刺激することも多い。しかしこれは形勢が容易ならんと、加藤さんが思っている時に出るしぐさで、私は精神的に優位に立てた。ただプライベートなことは殆ど話さなかった。
4.落ち着き払う羽生善治入門
羽生善治は私にとって最後の弟子になる。昭和57年(1982)、羽生が小学生名人戦の決勝戦を戦っているのを偶然、自宅のテレビで観戦していた。つい面白くて最後まで見てしまった。一種老獪な手を指す子供だなと感心して、記憶に残った。私の弟子の中島克安君の紹介で、ご両親に伴われた小学6年生の羽生君は、当然ながらまだ小さい。しかし普通の子どものようにきょろきょろしたりせず、妙に落ち着いていた。
修業時代の羽生と指したのは2回である。入門して初めての正月に、挨拶に来た羽生と飛車落ちで指し、負かされた。序盤に比べ、中・終盤に異様な力を発揮する。次は3段の時で、今度は香落ちである。途中、羽生に見落としがあった。しかし、特に咎めなくともいいわいと鷹揚に構えていたら、終盤あっさり寄せられてしまった。局後、王手取りをかけたらどうするつもりかと問うと「その時はその時で仕方ありません」と涼しい顔で答えられた。度胸のある子だなと思ったものである。羽生は3年間で奨励会を卒業しプロ4段になった。まだ中学3年生だった。
5.才人・内藤国雄さん
棋士の社会進出の先駆けの一人が内藤国雄九段である。将棋がトップクラスだけではない。エッセイストであり、歌手でもある。多才の人と思う。昭和51年(1976)に発売した「おゆき」は100万枚近く売れたと聞く。私より8歳年下だが、同じく詰将棋を創作するとあって、互いに親近感を持って接してきた。
対局してみて、相反する2つの要素が感じられた。一つは“詰将棋人間”としての性格である。本能的に余分な手順を嫌い、無駄な駒を嫌がる。もう一つは「関西流」と棋士仲間で称する棋風だ。歩の上に金をあげるような悪形を、平気で指すところがある。内藤八段も、定跡や駒組よりも力で勝負といった趣であった。関西流は、いくら長手数になっても困らない。
この二つの流れは、その後対局を重ねるうちに内藤九段の中で溶け合い「自在流」と呼ばれる独特の気風を完成したと思う。49年に、タイトルを獲得して9段に上がった最初の棋士になった。
氏は’16年11月1日84歳で亡くなった。将棋界では81歳を9X9の「盤寿」と呼ぶならわしがあり、木村14世名人はきっかり81歳で天寿を全うされたと書いているが氏は3年長生きしたことになる。この「履歴書」に登場は2000年5月で68歳のときであった。また将棋界では、木村義雄、大山康晴、加藤治郎と氏の4人であるが、囲碁界は、7人(橋本宇太郎、瀬越憲作、高川格、坂田栄男、藤沢秀行、林海峰、大竹英雄)である。
1.自分の使命はいい棋譜を後世に残すこと
氏は第12期王将戦で大山康晴王将を4勝2敗で破って初タイトルを獲得。66年と80年~81年に棋聖を獲得した。名人挑戦は第21期、23期、26期の3回でいずれも大山に敗れた。しかし、居飛車党の攻め将棋で知られ、大山や升田幸三・実力制第四代名人を倒す世代リーダーと期待されていた。氏は升田も大山も対局中に自分の局面が有利な時に、浪花節や軍歌を唄われ、嫌な気がしたと書いている。また、詰将棋作家としても知られ、作品集「将棋魔法陣」などもあるが、氏は棋士にとっての履歴書は棋譜であると考え、自分の使命をいい棋譜を後世に残すことだとも書いている。
2.将棋を囲碁と同格に
え?と思った記述は、「将棋と囲碁は同等」と考えていたのが、昭和50年頃囲碁名人戦を読売新聞から朝日新聞に主催を移した際、契約金が3000万円から1億にあがり、次に今度は読売新聞が新たに「棋聖戦」を創設し1億6000万円の契約金にした。将棋界は「同等」という基本認識で総会にかけ承認を得て、各新聞社に働きかけてこれに成功したと書いていることだった。へぇー、囲碁と将棋の裏面史を見た感じだった。
二上達也 九段 | |
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名前 | 二上達也 |
生年月日 | 1932年1月2日 |
没年月日 | 2016年11月1日(84歳没) |
プロ入り年月日 | 1950年4月1日(18歳) |
引退年月日 | 1990年3月31日(58歳) [注 1] |
棋士番号 | 57 |
出身地 | 北海道函館市 |
所属 | 日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 渡辺東一名誉九段 |
弟子 | 瀬戸博晴、羽生善治 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 二上達也 |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 5期 |
一般棋戦優勝回数 | 5回 |
通算成績 | 856勝752敗(.532) |
竜王戦最高クラス | 1組(3期) |
順位戦最高クラス | A級(27期) |
二上 達也(ふたかみ たつや、1932年(昭和7年)1月2日 - 2016年(平成28年)11月1日[1][2])は、将棋棋士。渡辺東一名誉九段門下で棋士番号は57。タイトル獲得通算5期。1990年引退[3]。
1989年から2002年にかけて日本将棋連盟会長を務めた[4]。加藤治郎・原田泰夫の後任として将棋ペンクラブ名誉会長でもあった。
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