瀬越憲作 せごえ けんさく

囲碁将棋

掲載時肩書囲碁名誉九段
掲載期間1958/12/05〜1958/12/16
出身地広島県
生年月日1889/05/22
掲載回数12 回
執筆時年齢69 歳
最終学歴
高等学校
学歴その他広島 一中
入社
配偶者
主な仕事詰碁、古碁譜研究、方円社入門(VS本因坊)、中国行脚、日本棋院、徳川「御城碁譜」刊行
恩師・恩人望月圭介 巌﨑健造
人脈加屋興宣(中学同窓)、高部道平、野沢竹朝、呉清源・橋本宇太郎(門下生)、大倉喜七郎、正力松太郎、鳩山一郎、津島寿一、
備考
論評

1889年(明治22年)5月22日 – 1972年(昭和47年)7月27日)は、大正、昭和時代の囲碁棋士。広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市)出身。方円社、日本棋院などに所属、名誉九段。1946年から48年に日本棋院理事長を務めるなど、棋院運営や囲碁普及に大きく貢献した。1928年の呉清源の来日に尽力し、門下とした。また1919年に満州、中国を訪問、1942年に青木一男の招待で呉清源らとともに訪中、1950年ハワイ棋院に招待されて訪問。1957年の台湾への使節団団長、1960年の日中囲碁交流第1回訪中団団長などを務めた。門下に橋本宇太郎、杉内雅男、伊予本桃市、久井敬史、曺薫鉉ら。1972年(昭和47年)、体の衰えを苦に自殺。

1.ドイツにも熱心な囲碁研究家がいた
昭和5年(1930)、ドイツの熱心な囲碁研究家のデュバル氏夫妻が、1か年の滞在予定で来日した。同氏はベルリンの高等学校の数学の先生だが、ふとした動機から囲碁に興味を覚え、同国への普及にも大活躍した。まったくドイツ棋界の開拓者の一人といえる。デュバル氏は現在80を超える高齢だが、依然として欧州棋界の元老で、一家は全員囲碁を打ち、子息は3段で本年度の欧州選手権を取った。また、令孫も少年だが相当強い。かくて親子三代の熱心な囲碁一家となっている。

2.新布石の登場
昭和8年(1933)には有名な新布石が現れた。発案者は木谷実九段(当時5段)と呉清源九段(同様5段)である。つまり、両隅の星と中辺にある星と3つ星に並べて打つ布石であるが、これが当時、実に流行して、棋院の大手合も全組が新布石で打たれるようになった。そして、新旧布石対比論がところどころでなされ、昭和9年、春の大手合で、私は発案者の一人の木谷当時6段と対局した。白番であった私は何とかして、この白番の3連星を打破しようと大いに考えて打った。終局に二手ばかりの不注意の手を打って負けたが、碁としては、少しも押されることはなかった。

3.原爆下の対局

昭和20年(1945)、広島に世界最初の原爆が投下されたが、この時、私は、第三期本因坊戦で、当時の本因坊橋本宇太郎と挑戦者の岩本当時7段の対局の立会として同地にいた。第一局は岩本君が白番で3目勝ちだったが、この三日間は空襲で幾回も防空壕に入らなければならなかった。第二局では、当時広島の警察部長だった青木重臣氏が見えて、広島で碁を打つのは、もういけない、広島を離れなければ職権で対局を中止させると強く主張された。そこで私は疎開していた広島から一里半ばかり離れた五日市にある中国石炭の統制会社の事務所で対局することになった。
 8月6日の朝、さぁ、これから始めようという8時6分か7分であった。突然、広島の方で青い光が、パッパパパとした。「何だろう」といって広島の方を眺めていると、広島の上空には巨大な入道雲がふくれ上がって来た。「不思議だナ、音も何にもしない」、それから数秒たつと、家がひっくり返るような爆風を受けた。ガラスは全部飛び散った。驚くべき破壊である。それでも片付けて午後は打ち掛けの碁は済まそうと打ち継いで、第二局は橋本が勝った。

瀬越 憲作(せごえ けんさく、1889年(明治22年)5月22日 - 1972年(昭和47年)7月27日)は、大正昭和時代の囲碁棋士[1][2]広島県佐伯郡能美村(現広島県江田島市)出身[3][4]方円社日本棋院などに所属、名誉九段。1946年から48年に日本棋院理事長を務めるなど、棋院運営や囲碁普及に大きく貢献した"日本棋院の父"[5]

  1. ^ 日本棋院の瀬越憲作 紹介ページ
  2. ^ 山下靖典『東京の中の広島 瀬越憲作と日本棋院』 (PDF) 東京広島県人会70周年記念誌 2017年11月 pp.75–76
  3. ^ 瀬越憲作瀬越憲作 - コトバンク
  4. ^ 瀬越憲作展 - 広報えたじま2019年11月号 江田島市
  5. ^ 「タウン 瀬越名誉九段を死に追いやったもの」『週刊新潮』1972年8月12日号、新潮社、15頁。 
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