掲載時肩書 | 法務大臣 |
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掲載期間 | 1974/07/21〜1974/08/18 |
出身地 | 東京都 |
生年月日 | 1901/03/19 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 73 歳 |
最終学歴 | 法政大学 |
学歴その他 | |
入社 | 三木武吉 事務所 |
配偶者 | 見合19歳娘 |
主な仕事 | 弁護士、府会議員、市会議員、衆議員、大臣秘書、政調会長、保守合同、書道界統一、衆議院議長 |
恩師・恩人 | 三木武吉 |
人脈 | 松浦周太郎、大野伴睦、河野一郎、菊池寛、永田雅一、迫水久常、木村武雄 |
備考 | 反吉田8人侍、 |
1901年3月19日 – 1984年8月4日)は東京生まれ。政治家、弁護士、第57代衆議院議長。1946年から1951年まで公職追放。国政復帰後の1953年、三木の盟友鳩山一郎と吉田茂の対立が抜き差しならないものになり、他の鳩山派のメンバーとともに自由党を離党。鳩山の復党後も反吉田「8人の侍」として三木、河野一郎らと日本自由党を結成、政務調査会長となる。日本自由党はその後自由党の鳩山派、岸派、改進党ともに日本民主党を結成する。保守合同で自由民主党が結成された後は河野一郎派 – 中曽根康弘派の幹部として重きをなし、温厚な人柄から各内閣で閣僚・党幹部に起用された。
1.公職追放後の生活
終戦後に私の衆院議員も公職追放になった。追放になってからは、弁護士を職業として生活することにした。国政の場から追放され、昼夜の別のない生活から離れて、私は暇を持て余してしまった。昼は弁護士、夜はマージャン、日曜日には競馬という毎日が続いた。しかし家内が競馬を嫌がるので行くときは家内に内緒で行くことに苦労した。
そのうち、だんだん玄人になり、馬の持ちタイムやら、騎手の名前やらを全部暗記するようになった。大野伴睦、河野一郎、菊池寛、永田雅一という人々も競馬場での常連になった。菊池寛は穴ばかり買うので彼と同じに買っても当たったことはなかった。夜のマージャンでもたびたび徹夜した。しかしこれらの遊びも昭和26年、追放解除とともに全部キッパリやめてしまった。
2.筑波研究学園都市の選定過程
昭和36年、池田内閣の改造人事があったが、私は引き続き建設大臣の留任を求められた。当時、筑波研究学園都市の建設が着想された。その動機はこの混雑した東京都内に数多くの試験場や研究所がある。はなはだしきは、農事試験場が北区の滝野川にあり、蚕糸試験場が杉並区にあるといった具合で、本来農村にあるべきものが都市の真ん中にある。
そこでこれらの試験場、研究所を地方に移してはどうかという議論が起こり、学園都市建築案となった。候補地として富士山麓と筑波があがり、結局河野一郎農林大臣が、筑波が最適であると主張した結果、筑波を候補地として計画を進めることとなった。私は試験場、研究所などの政府機関がいくつ移転できるかをいろいろ確認した結果、移転機関の選定を完了した。
この中には東京教育大学も含まれ、試験場も約30くらい移転希望があることが分かり、移転機関に関係している工学博士、理学博士などを合わせると1500人ぐらいがおり、移転になった。
3.書道会の統合
昭和40年の佐藤栄作内閣のとき、文部大臣となった。当時、書道を小、中学校の教育課程に組み入れたいと考え周囲の意見調整に努力し、これを必修科目とした。また、書道界に立派な尊敬すべき先生が幾人もおるので、ぜひこの中から文化功労者を出したいと考えて、ある人を推薦したが、書道界は分派が多く、各流派が対立していたので、どうしても思うようにいかない。そこで私は、当時の書道界の三巨頭といわれた豊道春海、鈴木翠軒、川村驥山の三氏に書道界の一本化について協力を要請した。2、3回会合を続けている間に、社団法人日本書道連盟の理事長であった豊道春海氏が提案した、この統合の仲裁役だった私がこの理事長を引き受けることで、統合が可能となった。
私が理事長就任後、まず豊道春海氏が文化功労者となり、二人目は鈴木翠軒氏がなられた。さて三人目は川村驥山氏と考えていたところ、残念ながら川村氏は逝去されてしまった。その後、6年がかりで統合が成功し、社団法人日本書道連盟の名称を全日本書道連盟と改称し、一応書道界の大同団結を完成することができた。
中村 梅吉 なかむら うめきち | |
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生年月日 | 1901年3月19日 |
出生地 | 日本 東京府北豊島郡下練馬村(現練馬区練馬) |
没年月日 | 1984年8月4日(83歳没) |
出身校 | 法政大学 |
称号 | 従二位 勲一等旭日桐花大綬章 |
親族 | 長男、中村靖 |
第57代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1972年12月11日 - 1973年5月29日 |
天皇 | 昭和天皇 |
第9-10・32代 法務大臣 | |
内閣 | 石橋内閣 第1次岸内閣 第2次田中角榮第1次改造内閣 |
在任期間 | 1956年12月23日 - 1957年7月10日 1973年11月25日 - 1974年11月11日 |
第86代 文部大臣 | |
内閣 | 第1次佐藤第1次改造内閣 |
在任期間 | 1965年6月3日 - 1966年8月1日 |
内閣 | 第2次池田内閣 第2次池田第1次改造内閣 |
在任期間 | 1960年12月8日 - 1962年7月18日 |
選挙区 | 東京都第5区 |
当選回数 | 9回 |
在任期間 | 1952年10月2日 - 1976年12月9日 |
その他の職歴 | |
衆議院議員 (1936年2月21日 - 1945年12月18日) | |
第10代 自由民主党総務会長 (総裁:佐藤栄作) (1964年 - 1965年) | |
第5代 自由民主党政務調査会長 (総裁: 岸信介) (1959年 - 1959年) | |
初代 自由民主党国会対策委員長 (総裁: 鳩山一郎) (1955年 - 1956年) | |
初代 日本自由党政務調査会長 (1953年 - 1954年) |
中村 梅吉(なかむら うめきち、1901年3月19日 - 1984年8月4日[1])は、日本の政治家、弁護士、第57代衆議院議長(在任期間、1972年12月22日 - 1973年5月29日)。長男は元衆議院議員の中村靖。