掲載時肩書 | カルピス食品工業社長 |
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掲載期間 | 1966/04/05〜1966/05/03 |
出身地 | 大阪府萱野村 |
生年月日 | 1878/07/02 |
掲載回数 | 29 回 |
執筆時年齢 | 89 歳 |
最終学歴 | 西本願寺仏教大学 |
学歴その他 | 13歳得度 |
入社 | 山口開導中学 |
配偶者 | 記載なし |
主な仕事 | 25歳中国、日華洋行、蒙古、醍醐味合資、ラクトー㈱・ピルマン㈱・カルピス食品工業、三島財団 |
恩師・恩人 | 杉村広太郎(楚人冠)、梅原融、大谷光瑞師 |
人脈 | 栗田淳一(教え子)、土倉竜治郎・四郎・五郎(奈良山林王)、大隈重信、津下紋太郎、与謝野夫妻、羽田亨 |
備考 | 健康法を詳しく紹介 |
1878年〈明治11年〉7月2日 – 1974年〈昭和49年〉12月28日)は大阪生まれ。明治・大正・昭和時代の実業家。特に「カルピス」生みの親、カルピス株式会社の創業者として著名。海雲はマーケティング活動にも秀でていた。「カルピス」という特色ある商品名の考案、「初恋の味」というキャッチフレーズの採用のほか、有名な黒人マークは今でいう国際コンペで募集されたものである。また、関東大震災時に善意から無料でカルピスを配給したこともカルピスの知名度向上に貢献した。1920年に動物愛護会とのタイアップによる伝書鳩レース、1926年には日比谷公園での囲碁大会など、今でいうところの企業広告、PR活動を展開した。「カルピス」の商品名はサンスクリット語の仏教用語が語源である。このように海雲の生涯の根底には仏教精神、仏教哲学があり、学生の頃より、「国利民福」(国の利益と人々の利益)を旨としていた。
1.恩師・杉村(広太郎)楚人冠
私の生涯を通じて親兄弟以上に引き立ててくれた楚人冠は、私が16歳で京都・西本願寺文学寮に入ったときの舎監であった。彼は東京で法律の学校に入ったが、法律は自分に不得手であることを自覚して、のちに国民英学会を卒業した。鎌倉の円覚寺の釈宗演師について禅の修行をし、鈴木大拙、高楠順次郎などと新仏教運動を行った。文学寮に勤めるようになったのもこうしたいきさつからだった。
彼は元来、人とはあまり相いれない性格で、後に文学寮で彼を辞めさすときに、他の教師全部にも辞表を出させるという手続きを踏んだほど難しい人だったが、私に対しては昭和20年(1945)に亡くなるまで、肉親のような態度で接してくれた。後年、朝日新聞に移って名記者とうたわれ、幹部としては近代ジャーナリストの草分けと言われるようになった。彼は私が中国や蒙古で活動していたときも、日本に帰って事業を始めてからも、終始、引き立ててくれ、陰に陽にかばってくれた。本当に楚人冠は私の生涯の恩師である。
2.栗田淳一君
明治32年(1899)文学寮を卒業した私は、山口県山口市にあった西本願寺系の開導中学の英語教師になった。そのときの1年生にのちの日本石油の社長、相談役になった栗田淳一君がいた。栗田君とは教師対生徒としてはさほど親密にはならなかったが、私がカルピスの前身ラクト-株式会社を設立したとき、新入社員として来て再会し、以来、終生、私の良き相談相手になってくれた。
3.大谷光瑞師のお人柄
私は明治42年(1909)と思うが、光瑞師が初めて北京を訪問されるまで存在を認められていなかった。しかし私が東単牌楼で日華洋行を経営しているのを見られて、「三島は徒手空拳で北京にやって来て、よくこれほどになった」と褒めてくださった。以来、何かと気を配ってくださるようになり、大正元年、清朝が倒れると、蒙古が日本につくかロシアにつくかを探るとともに蒙古に日本を了解させるために堀賢雄と私を派遣された。このとき私は、師がロンドンで買われた丸い磁石をいただいた。当時40ポンドもしたという高価なものだったが、さすがに正確無比、船の羅針盤も及ばないような磁石だった。
ある時は青年僧を集めて綱を引っ張らせ、家がメリメリ、ドターンと倒れるのを見て、師は哄笑されたそうだ。年配の役僧たちは、壊さないで売れば200円ぐらいになるのに、壊してしまえば燃料として50円ぐらいにしかならない。悪い側近がたきつけるからこんなことになると非難していたが、ともかく師は、王侯の名にふさわしい人であった。明治末、本願寺の人物が続々と中国にわたって活躍したのは師の指図だった。
4.カルピスの由来
カルピスの“カル”はカルシュウムから、”ピス“はサンスクリットからとった。仏教では、乳・酪・生蘇・熟酥・醍醐味を五味と言い、醍醐味をサルピルマンダ、熟酥(そ)をサルピルと言う。五味の最高は醍醐味だから、本当はカルピスでなく、カルピルでなければならない。そこで音楽界の権威山田耕筰氏に相談に行った。カルピルよりカルピスの方が良い、カルピスは音楽的に非常に発展性のある名前だと言ってくれた。これで決めた。