掲載時肩書 | 衆議院議員・社会党 |
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掲載期間 | 1971/03/27〜1971/04/20 |
出身地 | 岐阜県 |
生年月日 | 1900/10/30 |
掲載回数 | 25 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | 農業組合 |
配偶者 | 地主の娘 |
主な仕事 | アジア学生会、農民運動、農民学校、日本大衆党、市議、組合病院、衆議員、社会党統一、浅沼死 |
恩師・恩人 | 賀川豊彦 |
人脈 | 和田巌、平野力三、浅沼稲次郎、石黒敬七、河野一郎、大宅壮一、杉山元治郎、東海林武雄 |
備考 | 硫安3勇士:河野一郎、平野力三、私 |
1900年(明治33年)11月28日 – 1982年(昭和57年)5月23日)は岐阜生まれ。農民運動家、政治家。衆議院副議長。新潟3区では田中角栄の好敵手であった。田中は三宅(日農)支持者に食い込む形で勢力を拡大するが、三宅も根強い支持層で対抗した。ロッキード事件後の第34回衆議院議員総選挙で選挙運動中にお互い出くわした際には、三宅は「体に気をつけろよ」と田中にエールを送り、田中は「農民の恩人である三宅先生だけは落選させてはいけない。もし落選させたら新潟県人の恥になる」と三宅を称えた。
1.農民学校の設立・・・大正15年(1926)7月25日
地主と小作人との争議が家族ぐるみで本格化すると子供も巻き込んで、組合員の子弟90余人が同盟休校となった。するとこの同盟休校が県下に拡がっていった。ことを大きくしたのは大地主でリーダーの真島桂次郎氏が新たに北蒲原郡の教育会長に就任したのが火に油を注いだ。日農連は北蒲原郡の各支部の組合員の子弟である小学生を同盟休校させ「真島氏が会長の地位を去るまで休校を止めない」と声明したが、休校者は新潟県下で3千余人に達した。これを機に木崎村では「個性の尊重、画一教育の打破」を旗印に、無産農民学校を設立することになったが、先立つものが何にもない。
思案に余った私や稲村君は、上京してかねて建設者時代知り合いの大宅壮一君、木村毅君らに声をかけたうえ賀川豊彦氏に相談したところ、その場で話はまとまった。賀川氏は新潮社に「賀川豊彦全集」を担保に入れて3千円を作ってくれた。この担保には賀川氏のベストセラー「死線を越えて」も含まれており、賀川氏の力の入れ方は相当だったものだと言ってよい。こうして大正15年(1926)7月25日、農民学校が帝国ホテル設計のライト氏高弟によるライト式、二階建て延べ108坪の大校舎の棟上げが行われた。
2.医療組合で病院設立
昭和7年(1932)6月の選挙で長岡市会議員に当選した。私がこの市議から代議士時代を通じて力を入れてきたテーマに医療問題がある。この頃は全国の町村の三割は無医村で、農村地帯では医療費の支払いに窮して娘を売ったりする小作人が絶えなかった。私は当初、実費診療所を作ることを考えたが、その後、賀川豊彦氏を中心とした産業組合組織による医療利用組合結成の運動を参考にし、長岡を中心に中越6郡を単位とする大区域医療組合を作る計画を立てた。が、地元医師会からは猛烈な反対があった。
しかし我々は東京から賀川氏の来賓を得て数10か所で演説会を開き、会員募集を兼ねて浪花節などの余興もつけて一大宣伝戦を展開した。その結果、医療組合は長岡市に新たに整地した3千坪の分譲地に病室29,入院用ベッド42を備えた総合病院を建てることができた。医局の編成は、私が東大稲田内科の坂口助教授に話をつけて、主として警察病院から医者を回してもらうことで解決したが、資金不足でまたも賀川豊彦氏、河上丈太郎氏などにお世話になった。
3.吉田茂首相に仲間の追放解除を頼む
私は昭和24年(1949)の総選挙で戦後の政界に復活したが、戦前からの無産運動で鍛えられた闘志の多くが追放されていた関係で革新陣営の人物は小粒だった。特に日労党系は主力であった河上丈太郎、三輪寿壮、杉山元治郎、河野密の各氏らもまだ復活しておらず、私の身辺は寂しい限りだった。この状態は国家的損失と考えて、あるとき密かに当時の吉田首相に会って追放解除を要請した。
吉田氏はこの頃は白金の迎賓館に住んでいたが、私は旧知の東畑精一氏に同道をお願いして3人で朝食を共にした。この時、吉田氏は座談に紛らしてイエスともノーとも返事はせず、のちにこれらの人たちは他の追放解除組と一緒に解除されたので、私の要請は直接の効果はなかったことになる。
ところが何年か後、皇太子ご成婚のときの宮中での招待会の際に吉田氏にあったらいきなり「君には貸しがあるよ」と声掛けられたところをみると、解除のためにGHQに骨折ってくれたことは間違いないと思った。
三宅 正一 みやけ しょういち | |
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生年月日 | 1900年11月28日 |
出生地 | 日本 岐阜県恵那郡明智町(現・恵那市) |
没年月日 | 1982年5月23日(81歳没) |
出身校 | 早稲田大学政治経済学部卒業 |
所属政党 | (労働農民党→) (日本労農党→) (社会大衆党→) (無所属→) (護国同志会→) (日本社会党→) (右派社会党→) 日本社会党 |
選挙区 | (新潟県第3区→) (旧新潟2区→) 旧新潟3区 |
当選回数 | 14回 |
在任期間 | 1936年2月21日 - 1945年12月18日 1949年1月23日 - 1963年10月23日 1967年1月30日 - 1980年5月19日 |
三宅 正一(みやけ しょういち、1900年(明治33年)11月28日[1][注 1] - 1982年(昭和57年)5月23日)は、日本の農民運動家、政治家。衆議院副議長。
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