その他製造
掲載時肩書 | 資生堂前会長CEO |
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掲載期間 | 2025/07/01〜2025/07/31 |
出身地 | 奈良県五條 |
生年月日 | 1954/06/02 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 71 歳 |
最終学歴 | 同志社大学 |
学歴その他 | 米コロンビア大学大学院 |
入社 | ライオン |
配偶者 | 畠山政子 |
主な仕事 | 営業部、コロンビア大学留学、日本シティバンク、日本コカ・コーラ(ジョージア・爽健美茶)社長、、NTTドコモ、資生堂(公用語:英語)、コロナ禍、 |
恩師・恩人 | 勢田富夫、蔵田尚、柴田道雄 |
人脈 | 椎名武雄、酒井具之、鈴木敏文、飯島直子、桑田佳祐、中村維夫、前田新造、池田守男、福原義春、小林陽太郎、藤原憲太郎 |
備考 | 信念「マーケティングは人生そのものだ」 |
氏は、資生堂で「履歴書」登場の福原義春氏に次いで二人目である。最初に就職したライオン時代に米国留学しマーケティングを学ぶ。この専門能力を高く評価され、日本シティバンク、日本コカ・コーラ、NTTドコモ、資生堂などから招かれ実績を上げた。そして氏は、経営者として、日本の組織文化の良さとロジックを求めるグローバル思考を融合させた「ハイブリッド型」を模索し、更なる価値を創造してきた。この経験が氏の宝物だと思う。まさに氏にとって「マーケティングは人生」そのものだ。
1.マーケティングの基本を学ぶ
1977年4月ライオンに入社し、営業配属となる。毎日20軒ほど訪問して歯ブラシ販売しても、せいぜい6、7軒しか歯科医とは面接できず、門前払いの連続で、売上が伸びず苦しい日々が続いた。そんなある日、歯科医師会の役員をしている方から、「最近ライオンで虫歯ができる過程を世界で初めて映像化したはず。今度勉強会で見せて欲しい」と依頼された。すぐに研究所から取寄せ、自分でも説明できるよう勉強した。
この映像を使い、オーラルケアの重要性をプレゼンすると大好評。歯科医から「魚谷先生」と呼ばれるようになり、参加者の多くが大量に商品を購入してくれた。「買ってください」とばかり言っていてもダメ。相手が必要としている情報を提供することが大事だと、マーケティングの基本を学んだ。
2.米国留学で文化の違いを知る
81年6月、ニューヨークのコロンビア大学に留学。30か国以上から約700人の学生が入学。そのうち30%近くが女性。「CEO(最高経営者)になる。起業する」と夢を語っていた。男性中心の日本のビジネス界しか知らない私には、大きなカルチャーショック。優秀な女性も多く、リーダーは多様であるべきだと学んだ。
講義は、ケーススタディが中心。特定の企業の問題点などを分析し、もし自分がCEOならどういう戦略で対応するかなどを考え、手を挙げて自分の意見を披露する。みんなでディスカッションやディベートをする。教授にさえ反対意見をハッキリ言う学生もいる。積極的に議論に参加しないなら、あなたがこの場にいる価値がないという雰囲気。日本の大学では経験したことのないスタイルが大きなプレッシャーになった。アパートでケースを読んで準備し「ロッキーのテーマ」を聴いて自分を鼓舞してキャンパスへ。謙譲の美徳の国と自己主張の国の文化の違いを思い知った。
3.日本コカ・コーラ社長でボトラー再編
2001年7月31日、「魚谷さんが社長だ。明日発表する」と米本社から突然の連絡があった。社長としてまず取り組んだのが「基本価値は何か」「何のために働いているか」を定め、社内に浸透させることだった。社員と議論し、ありたい姿を目指す「こころざし読本」と名付けた冊子を作成した。
もう一つ重要な課題があった。14のボトラーの経営効率化だ。店頭ではデフレが進むと同時に、流通構造が変化。かって大成功したコカ・コーラの事業モデルも構造改革を進めなければならない。40以上ある工場の統廃合も必要だ。社長就任パーティを終え、その足で全国のボトラーの首脳たちと熱海で合宿。「未来のために納得するまで本音で話し合いましょう」と伝えた。
ボトラーの株主は、総合商社や地元の有力企業。社長も大株主出身。私より10歳以上の大先輩。若造からの再編の提案に違和感を覚えた人もいたが、「このままではダメだ」の危機感が共有できた。日本では経営統合には時間がかかりすぎる。全体最適を実現する機能別の構造改革をまず優先することに。すでに販売機能の統合会社コカ・コーラ ナショナルセールスは起動していた。次は購買、製造、物流などサプライチエーンの一元化だ。大きな経済効果があることは明快だが、これまで40年以上個別にやってきたことを一気に集約するには現場からの抵抗が強い。何度も根気よく議論を重ねた。
結果、03年にサプライチエーンを一社に統合し、各ボトラーを株主にコカ・コーラナショナルビバレッジが誕生し、大きな効率化を実現することができた。米本社も、世界でも最も進化したモデルと絶賛した。
4.資生堂に転籍して
2013年4月1日、資生堂に要請され「マ-ケティング統括顧問」に58歳で就任。外から見ていた資生堂と中に入って見える資生堂では違っていた。まずは社員へインタビューを行った。マーケティング担当者に「あなたの仕事は何ですか」と質問すると、全員が「商品開発です」と答える。誰からも「ブランド育成や管理」という言葉が出なかった。他の多くの日本企業と同じで、研究開発、商品企画、容器デザイン、広告宣伝、製造、そして営業、店頭までの流れが一気通貫でなく、バトンタッチ方式だ。「バケツリレー」などとも言われる。高度成長期の余韻で「良い商品を作れば売れる」の感覚が残っている印象を受けた。
半年ほど経つと、社外取締役と前田新造社長から、「大胆な改革を進めるため社長をお願いしたい」と請われた。尊敬する椎名武雄さんなどに相談し、親しい仲間や家内の後押しもあり引き受けることにした。社長就任は2013年12月。その後、営業部門と懇親会を開いたとき、マイクを持った女性社員が「私は入社7年です。これまで販売計画を一度も達成したことがありません。悔しいんです。勝ちたいです」と叫んだ。これには心が震えた。「みんなで勝ちを実現しましょう。競合に勝つだけでなく、自分自身にも勝とう」と私も叫んでいた。
2014年12月、中長期経営計画「VISION 2020」を策定し、社員向け説明会で呼び掛けた。具体的にブランド育成には3年間で累計1000億円の追加投資。研究開発投資も大幅増、その原資を捻出するため300億~400億円のコスト低減を実施し、20年までの6か年計画の最終年度に売上高1兆円超と営業利益1000億円以上を目指す。挑戦的だが、役員合宿での議論を受け、我々経営陣を自ら追い込むため、対外発表もした。
そして経営方針として、「世界で勝てる日本初のグローバルビューティカンパニー」を掲げ、その強みとして「日本発」を強調した。すると、この実現には国内事業の復活が喫緊の課題となる。本社と販社の縦割りをなくし全員が一体となる「ICHIGANプロジェクト」を始動。役員や管理職も「全員がマーケッター」としてお店など現場に出る。私も街頭でサンプルを配布した。化粧品であれ、飲料であれ、多くのお客様を幸せにする。そのために社員が活気に満ちていること。消費財ビジネスの共通のやりがいなのだ。
5.コロナ禍の対応
2020年1月、中国地域本社トップの藤原憲太郎さんから「武漢で変な病気が流行っています」と連絡が入った。「現地に400人の社員がいますが、自宅待機にしました」とも。その後、世界中で感染が拡大。日本でも「ダイヤモンドプリンセス号」のことが報道されていた。会社は出社制限を早々に決め、オンライン会議に切り替えた。「緊急事態宣言」によりお店での販売は一時休止。美容部員は「お客様に接することができないことほど辛いことはない」と嘆いた。
人々は外出制限やマスク生活で化粧どころではなくなった。売上高は各地域で毎日前年比30%以上落ち込み、「どこまで悪化するのか」と「眠れぬ夜」が続いた。当然、赤字を覚悟した。海外社員を鼓舞するため深夜のオンライン会議が増えた。「Solidarity(連帯)」という言葉をみなが口にした。欧米企業は早々に解雇などを始めたが、「当社は事態が明確にならない今はやらない」と決断し、各地域に伝えた。
しかし事態が好転せず危機状態を脱却するため、事業売却や撤退案を採用することになる。ただ、日本企業として、資生堂として持つべき矜持は「厳しい判断でも人への配慮を忘れないこと」だと考えた。米国の事業売却で、相手に「社員1700人全員を引き取り雇用を守って欲しい」と条件を付けた。当初は「米国ではありえない」と一蹴されたが、「我々は日本企業だ」と切り返した。かなり難航したが、米国事業トップの努力により寸前に合意。安堵した。残る社員から「危機のなかでもPEOPLE FIRSTを貫いた」との声を聞いた。