掲載時肩書 | オリエンタルランド相談役 |
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掲載期間 | 1999/07/01〜1999/07/31 |
出身地 | 福島県 |
生年月日 | 1913/09/04 |
掲載回数 | 30 回 |
執筆時年齢 | 86 歳 |
最終学歴 | 東京大学 |
学歴その他 | 山形 |
入社 | 理研重工業 |
配偶者 | 大田> 高橋(王子重役娘) |
主な仕事 | 日本製粉子会社(上海)ラバウル捕虜生活、 漁業組合・ディズニーと交渉、興銀・千葉県支援 |
恩師・恩人 | 江戸英雄、川崎千春(京成)、菅谷隆介(興銀) |
人脈 | 糸川英夫、永田武、後藤田正晴、加賀見俊夫、菅野儀作、友納知事、坪井東、沼田副知事 |
備考 | 父・警視総監→台湾総督 |
1913年(大正2年)9月4日 – 2000年(平成12年)1月31日)は福島県生まれ。実業家である。1961年にオリエンタルランドへ専務として入社。1978年8月に第2代同社社長に就任する。千葉県浦安沖の漁業権放棄に向けて、地元漁業協同組合などとの補償交渉を担当した後、「東京ディズニーランド」の建設のために、ディズニー社との交渉などを担当する。その後、世界初の「海」をテーマにしたディズニーパークである「東京ディズニーシー」をはじめとした「東京ディズニーリゾート」の実現に大きな役割を果たした。
1.川崎千春さん
1961年の初夏、三井不動産・江戸英雄社長の紹介でオリエンタルランドという埋立会社の社長・川崎千春さんを訪ねた。ディズニーランド誘致は、川崎さんの夢だった。そして61年1月に初めて本場を訪れ、そのスケールの大きさに圧倒されたという。それに比べれば、日本の遊園地は小さな砂場みたいなものと言っていた。いずれにしろ、京成電鉄では傘下の谷津遊園の運営経験があり、浦安地区の沿線開発の利点からも、川崎さんは、ディズニー誘致を本気で検討していたのである。
川崎さんは、東京・谷津で育った生粋の江戸っ子である。音大出身のピアニストであるフサ夫人の伴奏に合わせてバイオリンも弾けば絵筆もとるといったハイカラな人間でもあった。川崎家は代々、尾張徳川藩に仕えた絵師で、明治時代の日本画の大家、川崎千虎は祖父にあたる。また、日本画家の川崎小虎とは従兄になり、この小虎の長女が、先日亡くなった東山魁夷の奥さんである。ディズニーランドは、そんな芸術的センスのある川崎さんにとって、一目ぼれした美しい初恋の女性のようなものだったのかもしれない。
2.漁業組合と大酒飲みの交渉
浦安の漁民に漁業権を放棄してもらうため、漁業組合との交渉を始めたのは、オリエンタルランドに入社して半年近くたった1961年の秋だった。当時、浦安には漁業組合が2つあった。2つに分裂していること自体が、いかに漁民全体の取り纏めが難しいかを物語っていた。
本組合と第一組合に分かれ、組合員は本組合員が1300人、第一組合が500人で、それぞれ総代と称する組合員が50人ずついて、組合を纏めていた。こういう組織には必ず、「陰の実力者」と呼ばれる人がいる。その人物が誰かを突き止め、その人物を説得できれば、交渉は早くまとまるはずだと考えた。
江戸英雄さんは、「赤ちょうちんで焼酎か二級酒でも飲ませればいいだろう」と言っていたけれど、安い酒では交渉はうまくいかない。ちゃんとした料亭に連れていかないと、彼らも承知しなかった。連日、新富町や日本橋あたりの料亭で飲めや歌えやの大騒ぎだった。
漁民の家にも酒瓶を抱えて夜討ち朝駆けした。「とにかくレジャーランドを造りたい。海が汚れて魚業では食えないじゃないか。あなたの海をいたずらに犠牲にはしない。必ず立派な遊園地を造る」と説得した。体当たりの説得が功を奏したのか、2,3年はかかる難しい交渉と言われていたのに、半年足らずでまとまった。翌62年3月には、漁民1戸当たり50万円と埋め立て地100坪を補償するという内容で、浦安の両漁業組合は漁業権の放棄に同意した。
3.ディズニーランドのオープン
1983年4月11日、各界から2万6千人を招き、東京ディズニーランドのグランド・オープン式典が開かれた。61年に着手し20年以上かかり、ディズニーや県・国内企業とのいろいろな困難交渉を乗り越えての日だ。相談役の川崎千春さんが涙ぐんで喜んでくれたのが一番うれしかった。なにしろ「ディズニーランド命」でずっと来た人だから。私も、やっと恩返しができたと思った。さらに、4月12,13日には、地元の浦安市民に、これまでの協力を感謝する招待プレビューも行われた。
そして、いよいよ4月15日、営業開始の日を迎えた。私は、米国ディズニーのカードン・ウォーカー会長とともにワールド・バザールの中央に設けられた壇上に立ち、テープカットの後、詰めかけた大勢のゲストに向かい、「東京ディズニーランドの開園」を宣言した。最初、年間入場者1千万人という目標を発表した時、マスコミは冷たい目で見ていた。私も最初は、こんなにうまくいくとは思っていなかった。
アトラクション施設32,飲食施設29,商品施設39が東京ディズニーランドの全容だ。果して、これだけの施設で、どれだけのゲストを受け入れることができるのか。米国側の試算では、1日最大3万5千人だった。これ以上入場すると、ゲストがキャストから満足なサービスを受けることができないというものだった。しかし、キャスト全員の熱意と努力によって、オープン4か月後の夏休み期間中は入園者数の平均が5万7千人にまで達し、営業サイドからは「うれしい悲鳴」があがったほどだった。
こうして、1年目で1千36万人と目標を達成した。さらに、入場料、飲食、商品売り上げを含めた一人当たりの消費単価が当初予想の5千円を上回る7千円になり、売り上げも8百億円に達した。
たかはし まさとも 高橋 政知 | |
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生誕 | 1913年9月4日 福島県福島市 |
死没 | 2000年1月31日(86歳没) 東京都港区 |
死因 | 心不全 |
墓地 | 多磨霊園6-1-8-2 |
住居 | 東京都目黒区三田 |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 実業家 |
活動期間 | 1939 - 2000 |
肩書き | オリエンタルランド代表取締役相談役 |
任期 | 1995 - 2000 |
前任者 | 川﨑千春 |
後任者 | 森光明 加藤康三 |
取締役会 | 京成電鉄 三井不動産 千葉県 |
配偶者 | 高橋弘子(妻) |
親 | 太田政弘(父親) 太田タミエ(母親) |
高橋 政知(たかはし まさとも、1913年(大正2年)9月4日 - 2000年(平成12年)1月31日)は、日本の実業家である。東京ディズニーランドを誘致したオリエンタルランド元社長[1]。