掲載時肩書 | 経済評論家 |
---|---|
掲載期間 | 1960/04/05〜1960/04/30 |
出身地 | 山口県 |
生年月日 | 1891/01/01 |
掲載回数 | 26 回 |
執筆時年齢 | 69 歳 |
最終学歴 | 早稲田大学 |
学歴その他 | 早大予 |
入社 | 久原鉱業 |
配偶者 | 医師娘、死別後、この妹と再婚 |
主な仕事 | 朝鮮16歳、久原鉱業、東洋経済、欧米視察旅行(1年4月)、政府経済顧問、高橋研究所、戦後具申 |
恩師・恩人 | 国広宗次、塩田内蔵太郎、伊藤重次郎教授 |
人脈 | 棟居俊一、三浦鉄太郎、石橋湛山、片山潜、鈴木茂三郎、小汀利得、武藤山治、郷司浩平、池田成彬 |
備考 | 日経「大機小機」担当、植村正久牧師(洗礼) |
1891年(明治24年)1月27日- 1977年(昭和52年)2月10日)は山口県生まれ。経済評論家・経済史研究者。石橋湛山と並ぶ、日本の民間エコノミストの草分け的存在である。東洋経済入社直後に記者として欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆。ニューヨークでは、田口運蔵らと共産党ランドスクールでスコット・ニアリングの経済講義などを学んだ。のちに『東洋経済新報』の「財界要報」欄を担当。処女作の『経済学の実際知識』が好評を得、『東洋経済新報』編集長(1924年(大正13年)4月 – 1926年(大正15年)6月)や取締役を経て、1926年退社。フリーとして活動を始めた。
1.独学で早稲田大の商科予科を合格
明治45年(1912)、4年半ぶりに故郷に戻った。16歳で朝鮮に行き、21歳で帰国したのである。しかし、半月ばかりで私はすぐ上京した。英語の入学試験が不安なので、神田の正則英語学校に入り、はじめて教師について、本格的に英語の受験勉強をした。そして私は、生涯初めての入学試験を受けたのであるが、志願の商科予科にパスすることができた。まさに天にものぼる喜びであった。
小学校の同窓の友達が、高等小学4年を終えて中学5年を卒業する6年間、私は大阪と朝鮮とで、丁稚や商店員として過ごしたのであるが、今、これらの友達に追いついて、同時に大学の予科過程に進むことができた。しかし、中学校の全過程を飛び越している。独学も、英語の入学試験に全力を挙げたので、他の学科は国語そのものさえ欠陥だらけである。いわんや、漢文、理科、高等数学は全然やっていない。
入学はできたものの、落第するのではないかという不安が、最初、大きかった。落第すると、一年間がフイになって、予定の学資金では足らなくなる。それが一番心配だった。そこで文字通り、全力を挙げて勉強した。中学校の過程で、私がやっていないものについては、何とか間に合うように補修せねばならなかった。1年経つと、何とか中以上の成績だと思いうるようになった。そして進級試験を受けると、その結果は意外にも、500余人の商科予科中、私が首席で特待生(1年間授業料無料)になった。父母や朝鮮の塩田さんが喜んでくれたことが何よりうれしかった。父母に精神的負債の一部をこれで返せたと思ったのだった。
2.原稿料や講演料を妥当な報酬に認めさせる
大正15年(1926)6月、東洋経済新報社を正式に退社した。ここから研究生活に入るにしても、必要な費用は原稿生活で稼ぎながら進むほかない。新聞記者や雑誌記者は、実は社という背景に大きくおんぶしている。それを捨てて、一本立ちで、定給のない評論家生活に入ることは容易ではない。当時、文士以外の執筆や講演に対する報酬は、金一封が一般的習慣であった。これは一方的に与えられる薄謝であった。
こうした習慣をそのまま認めていたのでは、原稿料や講演料一本やりで生活する道は拓けない。そこで私は、まず以上の理由を説明しつつこうした旧慣打破を自らやらねばならなかった。この信念のもとに、最初に原稿料や講演料を確かめ、一定基準以下では引受けぬというやり方を打ち立てた。私は金銭に汚いという風評を受けたし、この交渉は気持ちのいいものではなかったが、喜んでくれた人も多かった。
3.高橋経済研究所の財団法人化
終戦後の最大課題は、敗戦で崩壊した我が国経済を、どう再建するかであった。高橋経済研究所は当然この大課題と取り組まなければならないが、戦中の長い間の開店休業で、人員も少なくなり、資金も枯渇し、旧資金網も敗戦で大部分が失われていて、新規巻き直しを必要としていた。そこで大蔵大臣の津島寿一氏らの側面的支援を得て、21年(1946)4月財団法人日本経済研究所を創立し、理事長兼所長となった。かくて、各方面の専門家、実際家の参加を得て、日本経済再建の基本研究に力を注いだ。当時は占領軍総司令部の検閲が厳しく、たとえば独立後の朝鮮経済に対する研究のごときは、重要な部分に大規模の削除を要求されたので、それでは無意味として、刊行そのものを中止したほどであった。