掲載時肩書 | 兼松名誉顧問 |
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掲載期間 | 1996/02/01〜1996/02/29 |
出身地 | 静岡県 |
生年月日 | 1922/01/04 |
掲載回数 | 28 回 |
執筆時年齢 | 74 歳 |
最終学歴 | 一橋大学 |
学歴その他 | 東京商大予科 |
入社 | 兼松 |
配偶者 | 医師の娘(東京女子大) |
主な仕事 | 特攻生還、ニュージランド、NY(手旗信号),兼松・江商合併、NY社長、社名変更 |
恩師・恩人 | 大原留喜、村瀬会長 |
人脈 | 芹沢光治良、井上靖、大賀典雄、室伏稔(沼中)、松浦巌(同期) |
備考 | 絵画・詩・川柳・歌舞伎、女の三張り、名文 |
(1922年1月4日~2018年10月28日)の静岡県生まれ。実業家。1946年に兼松に入社。80年に社長に就任し、会長在任中の90年に兼松江商から現社名の兼松に変更した。神風特攻隊を経験した名文家。
1.飛行機乗りの目標は単独飛行
昭和19年(1944)5月27日、鹿児島県出水海軍航空隊に着任した。我々の訓練機は、中練と称する二枚羽のいわゆる「赤とんぼ」だ。ニュートンならずとも、物は上から落ちるのが当たり前であることぐらい知っている。それを当たり前でなくするのが操縦術である。
我々飛行学生の当面の目標は単独飛行である。これを目指して教官も我々も必死であった。戦局はますます急迫し、時間的余裕がないのだ。一日も早く、一人前の搭乗員を戦線に送る必要があったのだ。7月12日、初飛行以来、39日目にようやく単独飛行の許可が出た。6人の分隊トップグループの一人で、教員同乗飛行時間、8時間55分だった。地上滑走し飛行機が2回、3回跳ね上がり、操縦桿をグッと引いた瞬間、機はフワッと浮き上がり、思わず「お袋」と口走った。
第二旋回が終わり、第三旋回までの数分間、「ここはお国を何百里・・・」と歌が出た。第四旋回を終わり、緊張のパス(滑空降下)から、ドスン。着陸だ。あぁ俺も一人前の飛行機乗りになったぞとすがすがしい。戦後、航空自衛隊のパイロットに聞いたところでは、単独飛行は13時間は最低必須時間とのこと。我々がどれほど速成パイロットであったかわかるが、戦局ひっ迫でそうせざるを得なかったためだ。
2.米国兼松社長でサロン・ド・スズキ開店
昭和52年(1977)1月、北米、南米総支配人、米国兼松社長の辞令をもらった。事務所はニューヨークTOPの高層ビル、ワールド・トレード・センターの48階である。私のモットーは透明性、社内の風通しを良くすることだった。夜、終業後は、社長室の隣室が社員に解放される。名付けてサロン・ド・スズキ。7時ごろになると手空きの連中が三々五々集まる。飲み物は私が提供、つまみは適宜持ち寄り、一杯が始まる。話が弾み、良い意味での無礼講となる。ここでの話からいくつかの面白いヒントを得たものだ。
しかし、仕事の状況は厳しかった。米国の不況に災いされて米国会社は極端な業績不振に陥っていた。着任早々、手を打った。まず不採算関係会社の清算、社内リストラなど、本社の賛成がなかなか得られなかったが、支援もあり断行することで急速に業績を回復することができた。
3.兼松江商の社名変更
昭和55年〈1980〉12月16日、戦後7番目の本社社長に就任した。ニューヨークで始めたサロン・ド・スズキは、「夜の社長室」と名を変えて、課長10人ずつ、夜一杯やりながら話す機会を作った。飲んだ連中と翌朝会うと「おはようございます」と元気がいい。こちらも微笑み返す。楽しい雰囲気であった。
どうしても社長の任期中にやり遂げようと思うことを4つ選んだ。その第一は社名変更問題である。兼松・江商合併の際、最後までもめた問題の一つであるが、町田(元社長)メモによると、「暫定的に、兼松江商とし、後に兼松に戻す」とある。また社名のアルファベットの字数が多過ぎる。日商岩井が10文字、伊藤忠、トーメンは5文字、それに比して14文字では大きなハンディと考え、変更を決意した。
しかし、江商出身者の思わぬ抵抗に戸惑った。まず社内の江商出身のシニアスタッフと主なOBの方々、ほとんど全員に一人ひとり会って、お願いとお詫びを兼ねて説得、恨まれもしたが何とか神戸市(本社所在地)で変更手続きに入った。
いろいろゴタゴタもあったが、社長退任後の翌平成2年(1990)1月、兼松株式会社が再スタートした。これは創業100周年の記念行事の一つとなった。
4.女の三張り
『おばさん』と親しく呼んでいた丸山君の母君が『どう?』と尋ねた。当時、八等身という言葉がはやっていたが、それを頭において『少し太めでは……』と言うか言わぬうちにおばさんの反論が始まった。『よくお聞きなさい。女には三張りと言って、目の張り、胸の張り、腰の張りです。これが一番大事なのよ、あの方はそれがそろっているのよ』。私は口をモグモグさせながら『でもちょっと張り過ぎでは……』。
途端におばさんはものすごい剣幕。『お黙りなさい。あなたの顔を鏡に映して、見て来なさい』」
彼はギャフンとなり結婚を承諾したと告白しています。のちのち「女の三張り論」の真偽を多くの人に確かめたそうですが、誰もご存じなかったとのこと。
ともあれ、彼の奥様はこの箇所が新聞に載ったとき、どのように反応されたのでしょう。何もなかったとは考えにくい、と思うのは私だけでしょうか。しかし、私(吉田)もこの珍説を拝借して、酒宴をよく盛り上げていたものでした。
氏は’18年10月28日、96歳で亡くなった。新聞に発表されたのは11月末で、氏がこの「履歴書」に登場したのは1996年2月で74歳でした。 氏は広島の大竹海兵団所属で、特攻隊員として九死に一生を得た経験の持ち主でした。その特攻隊の出撃前夜の状況を詳しく書いています。
昭和20年(1945)4月特攻隊志願書に署名し、出撃の順番を待つ身となった。今日は自分の名前が呼ばれるか、今日はなかったから明日か?そんな運命の日を待つ毎日だった。毎夕、五時、翌朝発信の特攻隊編成表が発表される。白い巻紙が壁に張られる運命の一瞬、全員の目は釘づけとなる。異様な声が渦まき、隊内は騒然となる。指名された者の周りに人が集まるが、彼はじっとしてはおられない。残りの人生が一挙に凝縮されてしまったのだ。
やがて別れの盃が交わされる。灯火管制の暗幕がひかれた部屋の中で冷や酒を前において遺書を書き直す者、行李を開けて整理する者、伊藤はローソクに火をつけて、許婚者の写真を火にかざした。「もう一度見せろ」と言う戦友の声に答えず、写真はメラメラと燃え上がった。伊藤の目にはその炎が映っていた。 酒がまわると歌がでる。「同期の桜」がいつまでも続く、肩を組む者、手をつなぐ者、何人かの目には涙が光っている。やがて飛行場からエンジンを暖める暖機運転の音が響いてくる。夜明けが近く発進の時間が迫ったことを知らされる。
まだ世が明けきらぬ早朝、征く者、送る者全員が指揮所に集合する。冷たいアルミの湯飲みに冷や酒が注がれ乾盃をする。特攻隊整列の号令がかかる直前、ハプニングが起きた。出撃する石田がモジモジし始めた。彼は襟元から何かつまみ出した。「虱だ、つれて征くのも可哀そうだ、面倒見てくれ」。彼はそれを戦友の首筋に落とした。「じゃあ、征くぞ」。きりっとした顔から白い歯をのぞかせて敬礼すると、くるりと踵を返して去っていった。
緊張した出撃の一瞬にこのユーモアがあった。氏の鋭い観察眼と友への熱い友情と惜別の情がにじむ。それだけに戦争の非情さと残酷さが浮き彫りになった表現でした。