鈴木治雄 すずき はるお

化学

掲載時肩書昭和電工名誉会長
掲載期間1989/05/01〜1989/05/31
出身地神奈川県
生年月日1913/03/31
掲載回数30 回
執筆時年齢76 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他東京高校
入社野村合名
配偶者見合:森矗昶社長(仲介)
主な仕事野村証券、昭和電工、東京化成(アルミ、石油、肥料)、昭和油化合併、新素材研究会、くぬぎ会、雅俗随想等
恩師・恩人亀山直人教授、安西正夫、今里広記
人脈朝海浩一郎(息子嫁・長女)御巫清、伊藤忠兵衛、小林一三、小林中、日向方齊、小山五郎、井上靖
備考絵画・文章 、父とその兄(鈴木三郎助)が味の素創業、クリスチャン
論評

1913年(大正2年)3月31日 – 2004年(平成16年)7月3日)は神奈川県生まれ。実業家。昭和電工社長・会長や企業メセナ協議会初代会長、経団連常任理事などを歴任。経済同友会設立や湘南国際村発起にも関わった。昭和電工の廃液による水銀汚染の食物連鎖で起きた四大公害病の一つである第二水俣病「阿賀野川有機水銀中毒事件」では、被害者救済に尽力した。また、経済同友会の設立に当たっては最年少の発起人となり、後に副代表幹事を務めた。また、東京大学で講師を務めるなど、「知性派財界人」としても知られた。長女直子は、元駐米大使朝海浩一郎長男朝海俊夫の妻。鈴木商店「味の素」創業者の2代目鈴木三郎助は伯父。長兄に父忠治が創業した三楽オーシャン(現メルシャン)に社長・会長を務めた鈴木三千代がいる。

1.兄弟はみな痛風
私は八男一女の兄弟で、男、男、男、女、男、男、男、男、男の順である。男は不思議なことにみんな痛風にかかっていて、専門の御巫清允先生の御厄介になっている。上から順に症状が出たが、四男の私を飛ばしてすぐ下の正雄が先に病気になった。ところが、暫くして私も痛風になり、先生のところへ伺うと、看護婦さんがうれしそうに、「先生、とうとう治雄さんが見えました」と大声をあげた。兄弟全部、例外なく痛風になるのは、医学的に興味ある臨床例になるということだったらしい。

2.仲人は森矗昶社長
昭和電工に入社以来、太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941)に森さんが亡くなるまで、2年足らずであったが、その膝下にあって文字通り厳しい指導を受けた。私に結婚話が持ち上がった時、平素から尊敬していた森さんに結婚式の仲人を引き受けていただくことになった。式は昭和16年1月17日に飯田橋の大神宮で行われ、披露宴は帝国ホテルだった。このとき森さんは既に肺炎に侵され高熱での出席だった。
 いよいよ披露宴に入ったころ、挨拶用の原稿が森さんのポケットにない。代わりに結婚式場で読まれた誓詞を包んだ紙が出てきた。肝心の原稿は間違って神官に渡してしまったのだ。森さんは女婿の安西正夫さんを呼び、オリジナルの原稿を取り寄せた。ところが、森さんはこれをチラッと見ただけでポケットのしまい、いつ覚えたのか新婦の生年月日まで、原稿なしで正確に言われたのにはびっくりした。
 挨拶も森式の型破りで、「今日から以降は、新郎は家庭のことは一切忘れて会社と国家のために尽力すべきだ」と言ったものだった。列席している若いご婦人方からは、あまりにもひどい話と非難の声もでた。挨拶の終わるころには、森さんは咳とともに鮮血も吐くほどで、コップの中にナプキンを押し込み、外から見えないようにしておられた。翌日、聖路加病院に入院されが、この日が森さんの社会活動の最後の日となった。結婚式の1か月半後の3月1日、偉大な魂は昇天した。

3.社長就任と社内の意識改革
昭和46年(1971)1月のある夜、突然安西正夫社長が私に対して、「この2月末の株主総会で、あなたに社長を譲りたい」と切り出された。強引とも思える申し渡しでしたが、バトン・タッチし社長に就任した。安西さんは翌年4月24日、享年67歳という若さで不帰の客となられた。
 当時、45年以来の不況が次第に深刻化しつつあった時期で、業績は急降下し、46年度下期は減配、47年には無配にせざるを得ない状況であった。さらに阿賀野川有機水銀中毒事件の裁判も進行中であった。この難局を乗り越えるには、私は基本的な経営姿勢として、理想的な企業像を描いて、全員がそれを承認、共通のものとし、全ての人が参加して努力を重ねて実現する外はないと考えた。
 そこで最重要視したのは年頭の挨拶で、自ら執筆し、刷り物し、当日話した後、直ちに従業員に配布した。そして本社だけでなく現場第一線の人たちとの対話も重要と考え、テーマを決めて毎月座談会を続けた。工場に行くたびに現場を巡回するのは勿論のこと、労働組合の幹部とも懇談した。感銘を受けたのは、彼らが立場の違いを離れて、率直に感想、意見を出してくれたことである。わが社が危機を突破できた原因の一つは、労働組合首脳の建設的な協力にあったと思っている。

鈴木 治雄(すずき はるお、1913年大正2年)3月31日 - 2004年平成16年)7月3日)は、日本の実業家昭和電工社長・会長や企業メセナ協議会初代会長、経団連常任理事、東京商工会議所監事などを歴任。経済同友会設立や湘南国際村発起にも関わった。フンボルト大学ベルリン名誉博士[1]

  1. ^ 名言DB
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