安西正夫 あんざい まさお

化学

掲載時肩書昭和電工社長
掲載期間1970/10/03〜1970/10/31
出身地千葉県勝浦
生年月日1904/11/12
掲載回数29 回
執筆時年齢66 歳
最終学歴
東京大学
学歴その他山形高校
入社鐘紡
配偶者森矗昶長女
主な仕事日本電工・昭和肥料->昭和電工、中外(追放中)、日本硫安協会、日本化学工業会長
恩師・恩人岳父・森、佐竹一郎、
人脈石舘守三、上野十蔵、鈴木三郎助、津田信吾、石坂泰三、河野一郎、大橋武夫息子(長女)、正田英三郎二女(長男)
備考父:県会議長、浩(兄:東ガス)
論評

1904年11月12日 – 1972年4月24日)は千葉県生まれ。実業家。商学博士。華麗なる一族。
父 直一(実業家、政治家・千葉県議会議長)、兄 安西浩(実業家・東京ガス会長)、妻 満江(森コンツェルンの創業者森矗昶の長女)、長男 孝之 同妻 恵美子(元日清製粉名誉会長正田英三郎の次女、上皇后美智子の妹)、二男 直之 同妻 博子(住友財閥の創業家住友家16代当主住友吉左衛門(友成)の二女)、長女 千世(政治家大橋武夫の長男で安田総合研究所理事長大橋宗夫の妻)、二女 八千代(2005年現在武蔵野音楽大学の学長を務めている福井直敬の妻)、三女 公子(元住友銀行名誉会長堀田庄三の長男でモルガン・スタンレー証券会長堀田健介の妻)。

1.岳父・森矗昶(のぶてる)の性格
昭和7年(1932)11月、岳父森が経営する日本電工に来るように強い招きがあった。鐘紡入社後ほぼ1年半、結婚してちょうど一年が経っていた。岳父の人物を語ると、まず“かみなり”である。日本電工入りした私は初仕事の一つとして社員の福祉も考え社内預金制度を立案した。その時の金利は奮発したつもりで定期預金利息より1,2分高くした。この案を見せると全社員の前で私にどでかい“かみなり”を落とした。
 「バカモノ。この金利は何だ。社員のためを考えたらこんな低い利息にするはずがない。もっと高くしろ。皆のためを考えてやれ」と皆の前でがなりたてる。私は立つ瀬がなかった。人使いも荒かった。深夜一時、二時ごろ社長宅に呼びつけられることが珍しくなかった。もちろん日曜、祭日もなかった。
 そして森の信念はこうだった。外国からの輸入品は片っ端から国産化する。そのために森のポケットにはいつも日本の貿易表が入っていた。そして国産化できた一品目ずつを、赤鉛筆で消していったのだ。それが硫安であり、石灰窒素、塩酸塩類、研削材、そしてアルミニュウムまで及んでいったのである。

2.豚の朝めし「PIG BREAKFAST」を学ぶ
昭和30年(1955)1月、私は初めての海外旅行に旅立った。期間は2か月余りだったが、公職追放から昭電復帰後いくばくもないころであり、胸中は何物かを掴み取ってくる意欲がし烈に燃えた。英国のICIでは「豚の朝めし」という言葉に大きな教えを受けた。ここの技師長は経営方針を次のように説明してくれた。
 ここでは工場の地下8百フィートから掘り出す天然石膏をアンモニアに作用させて硫安をつくる。それにつれて副生される種々の廃物が、ひとつ残らず重要な工業原料として消化され、14品種の製品がつくられているのであり、どんなものでも食べて、食ったものは全部身にする主義だというのである。私は化学工業とはこれなるかなと感じ入った。
 この外国旅行で特に肝に銘じたのは、世界的化学工業会社が新しい技術に目を光らせ“豚の朝めし”のように貪欲で、よく新技術を買いまくっていることだった。そして買うばかりでなく、自社の技術をどしどし外国に売り広げ、たとえ買った技術でも、必ずこれを自家薬籠中のものにし、自社技術に消化し直し”付加価値“を高めて売りまくっていることだった。
昭和34年に佐竹社長の後任として私が社長になったとき、基本的には外国技術の導入・・技術を積極的に買うことを決意した。これはつまり、戦時中の技術発展の空白を取戻し、新しい国際的な企業競争に耐えるためには優れた外国技術の導入を他社に先駆けて有利に進め、具体化し、その消化の上に立って、世界的に太刀打ちできる日本独自の技術を、確立することが急務と信じたからである。

3.77歳・石坂泰三さんの凄さ
昭和37年(1962)10月、経団連会長の石坂さんが団長でEEC諸国訪問使節に私は加わった。77歳のご老体では、まず床の間の置きの物ぐらいに敬意を表しておいて、要所要所は我々“若いもの”が、しっかりやらねばなるまいと密かに覚悟していたのである。ところがこの”若造“の予期を全く覆した活躍だった。
(1) 語学の達者なのに度胆を抜かれた。英語のスピーチは幾度か拝聴したが、品がよく、年代の積み重ねからくるサビの利いた堂々たるもので、まことに夏目漱石や、グラッドストーンを聞くような風格があふれていた。西ドイツで記者会見をした時は、石坂さんは終始ドイツ語で応対したが、まとまったスピーチをやった時、並み居るドイツの記者連中は石坂さんのドイツ語に感心、そばで観察していると合唱でもするような案配に合槌を打ちながら、これに聞き入っていた。
(2) しかし、フランスではさすがの石坂さんもこう言い訳された。「私は貴国に敬意を表すため、フランス語でスピーチをやるべく、実はこちらへ出発する前、3回ほどレッスンを受けた。しかし3回ではどうにもものにならなかった」というのである。ところがこの言い訳が何とも完璧な仏語で、石坂さんのフランス語についてのユーモアに満堂が爆笑するところとなった。
(3) それに石坂さんの几帳面ぶりには驚いた。かなりびっしり詰まったスケジュールで、我々”若いもの“にさえ、いささかきつかったのに石坂さんはこれを組まれた通り励行していく。しかも定刻よりも必ず早く、きちんと服装を整えられて所定の場所で一同の集合を待つという案配である。その大きな精神力には、初めの”床の間の置き物扱い“どころか、一同心から敬服、その一挙一投足にリードされていったのである。

安西 正夫(あんざい まさお、1904年11月12日 - 1972年4月24日)は、日本実業家商学博士

東京瓦斯会長を務めた安西浩の弟である[1]

  1. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 69頁。
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